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Liddell

真実という名の禁忌を暴く「魂のポルノグラフィー」

Liddell

演出家・俳優・詩人のアンジェリカ・リデルは「真理の受難者」だ。偽善と体裁が猛威をふるう、見てくればかりの現代社会で、官能と精神という眼にみえないなにかを舞台に結晶化しようとしてきたがゆえに、結果、因襲からはずれた異端者として現代社会から排斥されてきた。それゆえ、母国スペインの少なくないフェスティバルは、リデル作品の上演を控えてきた。93年に設立されたアトラ・ビリス・テアトロ(ラテン語でアトラ・ビリスは暗い感情の意)の転機は2010年に訪れる。アヴィニヨン演劇祭で『El ano de Ricardo(リチャードの年)』と『La Casa de la fuerza(力の家)』を上演し、フランスの知識人たちに衝撃を与えてから、おもにアンダーグラウンドで評価されていたリデルの活動領域は一気に世界へと広がったのだ。


「憤怒のスペイン人」(ルモンド紙)「観客を恐怖に陥れる」(リベラシオン紙)と、フランス各紙はこのカタルーニャ出身の演出家の登場をセンセーショナルに煽った。だがリデル本人は、なにも「センセーショナルなこと、前衛的なこと」をするつもりはない、とじつに淡々としている。「中世の典礼劇や神秘劇」に影響を受けているという彼女は、新しいものよりもむしろ古いものに惹かれ、例えば、ニーチェ、バフチン、バタイユ、アルトーなどを引用しつつ、まるでベッリーニの宗教画のように戦慄的な美しさを誇る「残酷な美学(Aesthetico Brutal)」の画布を舞台上に描きあげていく。


18歳まで修道院付属学校で教育を受けたというリデルの舞台は、端々まで聖像学の記号に溢れ、聖書からの引用が散りばめられている。だが彼女が崇拝するイングマール・ベルイマンの映画と同様、彼女の舞台にも、キリスト教を否定しつつ肯定を試みる、という強烈にアンヴィバレントな力学が働いている。例えば7月に東京で行ったワークショップのノートには、以下のように記されている。

「わたしのケツとわたしのアソコとわたしの口の中に神がいるのかもしれない、神は滴(したた)る精液となり、わたしは女神となる、禁忌によって聖を得て」

この痛ましいほどの引き裂かれかたは、無宗教な日本人にはなかなか理解しがたい。だが、リデルはあえて善/悪、光/影、聖/俗の対立軸を保ったまま、そのはざまの辺獄に身を置いて、矛盾撞着な板挟みを原動力に、恩寵も救いもない現実世界の腐った真実を吐きつづけていく。

「わたしは毎公演、モノローグで、自分のなかにあるもっとも忌まわしいものを吐き出そうとしています。心のなかにある糞を吐き出そうとしているんです。そういう意味で、わたしはいつも舞台上で拷問にかけられているといえるかもしれません。ただ、そこには快楽もあります。バタイユが言うように、究極の苦痛はエクスタシーにもなり得るのです」

『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』 (2013年ウィーン初演)でも、リデルは自らを恍惚的な拷問にかける。主人公に扮した彼女は終盤、ウェンディの愛らしいドレスを脱ぎ、こざっぱりとした黒い衣装に着替え、約1時間、心のなかにある糞を吐ききるべく強迫観念めいた呪詛の言葉を叫びつづける。特に本作では、ウェンディ・シンドロームという副題が示すように、他人に見捨てられたり、傷つけられたりすることを怖れるあまり、まるで過保護な母親のようにまわりの面倒を見てしまう女性に対しての、生理的な嫌悪と同情の哭声がないまぜになって放たれていく。

「わたしは自分の母に対して、痙攣的な嫌悪感を抱いています。それは死にゆく命であるわたしを産み落とした親に対しての憎しみです。またそれは子を持つことで周りに無条件の敬意を払ってもらおうとする、あらゆる母親に対しての憎しみでもあります。その憎しみを、わたしは母性の象徴であるウェンディに投影している。ただわたしはウェンディにシンパシーも感じています。彼女はいつも見捨てられる恐怖を抱きながらピーター・パンに接していて、実際、最終的には老いてピーターに捨てられてしまう。その見捨てられたウェンディに、わたしは自分の姿を重ねることができるのです」

老いたウェンディが疎外されるネバーランド、16歳から26歳の若者ばかりが銃乱射事件で殺されたノルウェーのウトヤ島、そして若さを取り戻そうとするかのように老人が社交ダンスにふける上海の街並み。この三つのトポスを重ねあわせることで、リデルは倍加的に「若さ喪失」の恐怖を強調していく。リデルにとって若さの喪失とは、端的に死への接近であり、つまりは「愛されない人間になること」を意味するという。

「老いとは、愛を失うこと。また、将来的に愛される希望も失うことです。さらに老いは、三島由紀夫が言うように、情感が浅くなることも意味します。舞台を介してわたしは、観客と出演者の苦痛を掘り下げ、魂の深奥から、感性を研ぎ澄ます儀式を構築します。つまり演劇とは、疵口から噴き出されてくる、エネルギー解放の儀式なのです。しかし老いは、このような鋭利な情感を無残にも略奪します。ですから老いに美しさなど、微塵もありません」

もし仮に、道徳的社会的禁忌を故意に犯す文学をポルノグラフィーと定義するなら、リデルの舞台は、彼女自身が告げるように「魂のポルノグラフィー」といえるだろう。彼女の舞台は、観客個々が「見まい、見まい」とひた隠しにする真理を、あえてもっとも痛ましい疵口から、遠慮会釈なく暴いてしまうのだから。原則(礼節)と現実(禁忌)のあいだの不一致に対して、目を瞠るかまえなくしては、リデルの作品は受け止められない。上述したリデルの言葉に、脊髄反射的に腹立たしさを覚えた人は、要注意といえるだろう。欧州でも途中退席者が後を絶たない禁忌を犯す儀式が、日本でどう受け止められるのか楽しみだ。
(インタビュー/文・岩城京子)


『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』