フェスティバル最後の残酷―悪魔のしるし『悪魔のしるしのグレートハンティング』

公募プログラム全作品を通して、この企画に最も合致しているように思えたのが、悪魔のしるし「悪魔のしるしのグレートハンティング」であった。もちろん、神村恵や岡崎藝術座とはちがって、今回のラインナップでこの集団を初めて知ったという方も少なくないだろう(わたしもそのひとりである)。つまり、観客の多くは、いったいどんな作品を見せてくれるのか、それなりの期待をもってチケットを予約したはずなのである。

このような期待に拍車をかけたのが、なんといってもパンフレットに書かれた公演の概要であった。そこには、こんなふうに作品の「予告」が行われている。

演劇を規定するさまざまな要素を根本から問い直し、多彩な上演形態で注目を集めるパフォーマンス集団・悪魔のしるし。本作では、劇場空間の中央に巨大ボードゲームを設置し、ゲームに集い興じるプレイヤー(=出演者)たちは、サイコロによって進行していく「盤上の物語」を生きていく。劇場とわたしたちの日常に潜む「PLAY」(=物語、演技、演劇......)が、メタ構造の中に暴かれる。

めまいがするような文章だ。この作品では、いったい何が行われるというのか、皆目見当がつかない。それに、こんな文章を読まされたら、もはや観客は、身ぐるみをはがされても、文句はいえまい。なにせ、悪魔のしるしの「グレートハンティング」なのだし、ハントされるのは、観客かもしれないのである。とりあえず、お気に入りの服を着ていくことだけは避けておこう。体調もできるかぎり整えておこう。それ以外には、対策があまり浮かばない。

さて、舞台をご覧になった方はすでにおわかりのように、劇場のなかには「巨大ボードゲーム」など存在しない。舞台も中盤に迫った頃になって、客席全体を巻き込むようなスペクタクルな仕掛けがでてくるーーというわけでもない。それどころか、舞台と客席はきわめてノーマルな位置にある。サイコロも、ゲーム盤もない。唯一特殊なのは、高いチケット代を払った観客が、昔のフランスのように、舞台上で自らの存在を誇示しながら舞台を観ることができることくらいである。

だが、これはパンフレットに書かれていた誇大な解説がやっぱり誇大だった、という話ではない。この文章を読んでくれている人のなかにも、「あんなの、できるはずないと思ったんだよね」と、みずからの見通しのよさを得意顔で語った人がいたはずである。 『悪魔のしるしのグレートハンティング』は、不可能な予告がされていて、やっぱり不可能だったと言って済ませていい類の話ではない。強いていえば、「公募プログラム」(あるいはフェスティバル)の根幹に関わる話でなのである。

もう一度、さきほどのパンフレットに書かれていた「解説」に目を通してみていただきたい。そのうえで、この問題に答えてみていただこう。

この文章の〈語り手〉は、誰か?

劇場に足繁く通う人、あるいは普段から文学的な文章を読んでいる方なら見事に正答を言い当ててくれたと思う。答えはそう、「フェスティバルを運営している誰か」である。劇団関係者や、演劇批評家と答えてしまった方は、「はずれ」である(もう一回読んでみてください)。もちろん、実はわたしが書きましたとか、そういうことでもない。

わかりやすいように、その方を「Fさん」と呼ぶことにしよう。HP上で読むことができる「公募プログラム」の体制から考えて、「Fさん」は80近くの劇団・パフォーマーのなかから、「悪魔のしるし」を含めた8団体を選出した当人である可能性が高いが、実際にそうかどうかはあまり重要ではない。また、複数かもしれないが、それも重要ではない(「Fさんたち」でもよい)。重要なのは、「Fさん(たち)」が上演履歴や受賞、前作品のビデオなどの「データ」を通じてしか、「悪魔のしるし」のことを知らない、というまさにその事実だ。

「知らない」にもかかわらず、くだんの文章にはこのように断言されている。「劇場とわたしたちの日常に潜む『PLAY』(=物語、演技、演劇......)が、メタ構造の中に暴かれる」。「知らない」のに明らかに断言している。いったい、これは「誰の」ことばなのだろうか? 「Fさん(たち)」のことばなのだろうか? 演出家(危口統之)のことばなのだろうか? 「劇場とわたしたちの日常に潜む『PLAY』(=物語、演技、演劇......)が、メタ構造の中に暴かれ」なかったとき、責任をとるのはいったい誰なのだろうか?

どうしてそんな些細なことを問題するのか、と思われるかもしれない。だが、ちょっと厳しい目でパンフレットの文言を見てみてほしい。黒田育世の作品を見て、「壮大なファンタジーが立ち現れ」ただろうか? 三浦基の作品は、「『演劇』を、『生』を、そのリアルを問い直す時間にな」っただろうか? マルターラーの描いた「『終わり』の風景が、わたしたちの住む日本にも共通する眺め」であり、人々の歌声が「このうえなく切なく、胸を打」っただろうか? 

それでも、すでに「実績」がある劇団やカンパニーならば、それまでに書かれてきた批評を含めて、次回作にどのようなことばを与えればよいのか、ある程度見当はつくだろう。しかし、「公募プログラム」の場合はちがう。各劇団が自己PRをしなければならない。自分を評定する「セルフパッケージ化」が義務づけられている。つまり、公募プログラムに公募する劇団は、すぐれた演出家やダンサーである以前に、すぐれた「批評家」でなければならないということだ。

前置きが長くなったが、このような構造的問題を浮かび上がらせつつ、そこで「プレイする(=あそぶ)」という難行を成し遂げていたのが『悪魔のしるしのグレートハンティング』である。自分たちが「公募プログラム」らしき企画に公募をして、「竜退治」の上演という壮大な構想を担当者(=「Fさん」)に提示する準備段階から、なにひとつ当初の構想が具体化されていないまま初日を迎えてしまうまでをテーマにした「ドキュメンタリー演劇」仕様になっている。

舞台は、劇団の演出家を演じている役者(森翔太)が、客席に向かって作品の概要を前説している役者を撲殺して、「穴」のなかに引きづり込むところからはじまる。彼は、ツイッターで役者を募集してはレクチャー費と称して小銭をむしり取り、フェスティバルの担当者には製作が順調に進んでいると騙しつづけ、有名評論家には「袖の下」をもたせようと、あちこちで辻と褄を合わせていく(基本的に金欠なので必死である)。森の孤軍奮闘が、ドラマトゥルギーのすべてだといってもいい。

副筋の「竜退治」は、場面と場面のあいだにふたつの機械的な声によって朗読され、この神話的な物語の進行とともに、森の「孤立化」が進行していく。フェスティバルの担当者も撲殺。評論家も刺殺。下僕のようなツイッター役者にもキレられたので、絞殺。ついには、頼みの綱だった制作の女性も殺してしまう。演出家は、絶望の果てでひとり、エレキギターをかきならすのである。まるで、このつらい舞台が終わったことをみずから(だけ)に向けて祝福するかのように。

仲間を増やして竜退治をするという壮大な計画は、参加メンバーを増やして面白い舞台をつくりあげることとパラレルになっているというよりは、仲間を減らしてみずからが竜であったことを知るという物語構造内在的・オイディプス的解釈をしてもよいのだが、「セルフパッケージ化」を要求されている境遇に気づいてしまった演出家が、「俺は、ぜったい俺のことをパッケージ化しない」と最後まで我を通し切ったというふうに解釈することもできる。

とすれば、「竜」とはいったい何であったのか? それは「支援する側」と「支援される側」に瞬間的にできてしまう溝である。御恩と奉公。このような封建的秩序が、資本主義がとやかく非難されるくらい資本主義的な秩序において、なおも生き延びていたのである。ライブが生命の演劇作品でさえ、「商品化」(=パッケージ化)されて流通するシステムのなかで、演劇作品をつくる側の苦悩。それを商品化しようとするシステム側の欲望の論理学。

「悪魔のしるし」は、凡庸なことばを与えられるくらいならばと、「サイコロによって進行する巨大盤上劇」という誇大広告によって、精一杯の(ただしきわめてアイロニカルな)「奉公」をしたのである。したがって最後に、「Fさん(たち)」には謝らなければならない。なぜなら、「劇場とわたしたちの日常に潜む「PLAY」(=物語、演技、演劇......)が、メタ構造の中に暴かれる」というコピーは、まさしくこれを書いた当人にとって、「メタ構造」のなかで暴かれたという点で、実現されたからである。

ーーというようなことを、「悪魔のしるし」の方たちは意識的にやっていたとは思えないのだが、批評家は読者が「ああ、そうだったのか」と思う内容のことを書かなければならないので、この文章にもサイコロやボードゲームは登場しないが、わたしはわたしなりの誇大妄想を愛すべきフェスティバルに「奉公」として、捧げるのである。

堀切克洋