松井周が現在到達したところ [香取英敏氏]

 舞台は高層と低層に別れている。
 低層部舞台はさらに上手側に手前に傾斜のついた二等辺三角形が底をこちらにむけている。下手側にはそれよりやや高い位置に奥に傾斜した頂点の鋭角がきつい三角形だ。どちらも足場の上に乗り、中空に浮かんでいる。役者はその床下からも現れたりもする。高層部はギャラリーから渡した橋の上に、中央部に空間を切り、そこも重要なアクティング・スペースである。

 今回の「あの人の世界」も今年の松井の作品同様、優れた装置があった。
 1月こまばアゴラのサンプル「伝記」では、ギャラリーからすべり棒で降り立った舞台にはいくつもの本棚があり、そこに焼け焦げた分厚いファイルが何段にも並び、視覚的に過去を対象化してしまった。3月F/Tの「火の顔」では舞台に細長い橋状の舞台を作り、その上が家族の食卓やリビングへと変貌するという中空の使い方で、家族の価値が「宙づり」にされた。また5月の三鷹市芸術文化センター「星のホール」でのサンプル「通過」では、四方舞台の周囲と通路にゴミ袋を無数に積み重ね、家族や人間関係の荒廃が象徴的に表象された。
 今回と同じ、杉山至+鴉屋の造りだした、それらの美術・装置はおしゃれなだけでなく、ファインアートのような美術性の高さを持ち、観客の印象に残り、忘れることのできないものになっていた。松井周の舞台世界には欠かせないものであった。
 今回の装置は、抽象的でありながら、展開していく演劇的世界との緊密性がより増して、究極のセノグラフィが造型されていた。観客の視線を上へ下へ、後ろへ前へと一所に落ち着かせないのである。
 舞台は高層部に現れる古舘寛治、石橋志保の「夫婦」が白木の墓標に参るシーンから始まる。その墓は二人の愛犬「キクちゃん」のものだ。登場した田中佑弥とのやりとりで、互いにその死の責任をなすりつけ合い、「千の風になって」をもじる男の死生観と女の見解の相違が明らかにされ、二人の関係が冷え切っていることが伝わってくる。次のシーンではその墓標が運び込まれた食卓の足の一本にはまり、そこが二人の空虚な家庭に変貌する。その白木部分は下に突き抜け、橋から下はいくつかカスガイが打たれた普通の原木になる。
 低層部に場面は移る。
 浮かぶ舞台の周囲を自転車で回った後、三角形に上がった女、深谷由梨香が踊りだすと、ぼろぼろな服装の、ネズミ奥田洋平、動物渡辺香奈、ウサギ善積元が現れ、女はダンスチームの仲間になる。
 さてここからはいつもの松井世界である。クロスカッティングされたエピソードが展開されていき、ストーリーがないため記述することが難しい。
 高層部では破綻しそうな夫婦の日常の生活空間が描写される。
 低層部では三つの流れが展開する。動物たちを組織して、「動物ミュージカル」をつくろうとするホームレスドクター(HLD)古屋隆太と動物ダンスチームとの、支配、抵抗、従属と反発が起こっていく流れ。出会ったビラ配り芝博文により「運命のひと」を探すのが目的化する記憶がない男田中がさすらっていく流れ。嫁山崎ルキノ、姑羽場睦子とが失踪した夫(=息子)をさがす道行きの流れ、とである。
 上演半ばで、山崎が掛けた電話に古舘がでることにより、彼こそが失踪した夫であり、高層部で家庭に見えていたのは愛人との生活であったことが判明する。
 ここからのさまざまな価値の転倒につぐ転倒が起こり、小気味よい。二項対立で捉えられた価値が錯乱されていき、価値の決定の不可能性が立ち上がってくる。
 たとえば二項のセットはそれぞれ前者が価値のあるものとされるものである。
 「生/(と)死」
 「自由/(と)束縛」
 「恋愛の自由(個人の自由)/(と)婚姻(社会規範)」
である(3セット目は時代や社会によって価値観が変わるものだが)。
 しかしこの作品では、たとえば自由恋愛が社会規範である婚姻に勝利するという現代的価値の転倒だけでは収まらず、勝ちとった個人の自由ですら、恋愛が破綻すると「束縛」になり「憎悪」が生じるという二段階目の転倒がおこる。
 下層部の女、深谷がキクという「イヌ」と同一であることが判明し、人間を捨て動物になろうと志す人間たちとの異和と混乱がおこる。
 また「人間/(と)動物」において「われ」と「われわれ」はどこまで、人間でありえ、動物であるのかという問いがたてられると同時に、自由を求めて「動物」になったものたちがかえって人間のHLDにより支配を受けるという意味の錯乱が起こる。
 また「人生の目的」を求める男は、理由無く偶然に与えられた人捜しを自己の生きる目的とするが、そこにはなんの価値も見いだせない。けれどそのような人生に意味を与えたいという切ないが健全な発想よりも、不健康なトラウマを持つものたち(嫁とネズミ)が作品の中では魅力的に見えるという転倒が起こる。
 この作品で現れるのは、対立した二項から「正しいもの」を選びとったり、追い求めたりすることではない。また周縁にある、一般に好ましくないとされるものの価値を称揚して、周縁を活性化することによって、相対的に中心を検証し、相対化するという転倒を指向しているわけではない。
 二項を分ける「/」という基準、「と」という並列や対比を松井は自明のものとして捉えていない。彼はその二項を分ける「閾」に注目する。閾の基準によって左右の価値どちらに属するかを振り分ける判断そのものに懐疑する。まず事物に意味があり、価値の決定を単独で行うように思われがちだが、松井はそここそを疑う。
 彼はまずあるのは「閾」だけであると断言している。そしてそれこそが二項対立の正体であることを看破する。
 だからここで松井周は、強い意志を持って「/」や「と」という閾を無効化していこうとする試みを模索している。
 その結果、登場人物たちは楕円の軌道の上を移動・循環していく運動性を持つ。彼らは対立する二項を二つの焦点とする楕円の軌道上を運動していく。その運動は、それぞれの焦点の引力圏に引き寄せられ、加速し、そこから離脱するという衛星のような軌道を描く。そして一つの焦点から離脱すると、もう一方の焦点の引力圏に引き寄せられ、その周囲をめぐり再び離脱する。
 その往還は、二つの正対する価値の間を振幅することではない、二つの間をさまよい続ける移動を生む。対立する価値の間を移動し続けていく運動ととらえることで、片方の価値に吸収されたり、収斂されたりしない。
 絶えず価値は決定されず、たえずどっちつかずの「宙づり」状態におかれ続けるのである。
 「あの人の世界」も、サンプルの今年の他作品と同様に、説明が十分ではないところも多い。相変わらず難解な舞台には違いない。しかし「説明できないもの」「価値決定の不可能性」をただゴロンと提示するという並列、羅列ではなくなった。
 あえて決定せず、宙づりのまま運動し続けるという道を選択している。
 あれもわからない、これもわからないと価値判断を乱反射して、ノイズ化した渾沌へと向かわず、ひとつひとつの「わからないこと」の軌跡をクリアにたどれるようにしているところが秀逸に思える。
 換言すれば「わかること」の限界が示されることにより、そのわかったことの「縁(へり)」が見定められたといえるだろう。だからこそ一つの評価軸で価値決定せずに、カテゴリーを大胆に越境しながらいくつもの評価軸を意識的に錯綜させることが可能になったのだと言える。無理になにか分かるものに落とし込まず、「わからない」と断定することを恐れない姿勢には、松井周の考えぬくという、優れた資質が見事に結実していると感じられた。
 その結果、見据えられた世界の向こうに「わからないもの」がきちんと措定されている。価値の決定不能性が明確に提示されたのだ。それができたからこそ、「われわれはなにがわからないのか」ということが提示できたのだと思う。
 古舘が高層部から小便をし、それが雨となり、その雨で古屋が頭を洗うという、映画「明日に向かって撃て!」へのユーモラスなオマージュ・シーンがある。そこでかかるバート・バカラック「雨に濡れても」の歌詞に「nothing
seems to fit」とある。
 世界は現在、われわれにとって、「すべてしっくり行かないみたい」なものなのだ。
 そのことが結実できた「あの人の世界」は、現時点での松井周の集大成であると断言できる、優れた舞台になりえたのだろう。