このマーキングからは逃れられない [大泉尚子氏]

 一度見ただけでは、頭の中がぐっちゃぐっちゃになって、心底わけがわからない。なのに、妙に記憶の染みになりそうなひっかかりが、たくさん出てくるお芝居だ。
 私は、松井周オリジナルものとしては「家族の肖像」と「通過」の再演を、また演出作品ではマリウス・フォン・マイエンブルグ作「火の顔」を観劇した。内向きのベクトルが強いそれらにくらべると、今回の作品は、バッカスの祝祭やカーニバル的な気分も満載。視覚面でも、どことなく地平線がほの見えているようでもあり、とりあえずはかなり開放感のある印象だった。

 舞台は上下に分かれた二段構造。いや、下の段も床面からは少し高いので、2.5段構造と言った方がいいかもしれない。また上段の上方にはスクリーンがあり、映像がうつし出されると、さらに高さが強調される。下の段は、白い布の張られた大小の三角地帯がつながっている格好。上下のステージをつなぐのは、中央に伸びる1本のパイプだ。「火の顔」でも、家族が集うテーブルを長い金属製のポールが貫いていて、垂直方向への志向性を感じさせた。
 上下二段ということでは、ベルギーのダンス作品「Le Sous Sol/土の下」を思い出す。そこでは地下室を舞台に、いろいろな出来事が起こる。上の段の地上らしきところは草原で、ひとりの男がじっと寝そべっているだけ。照明も落ちていて、ぼんやりとした人影としか見えない。下は、彼の思い出あるいは夢、想像の世界とも受けとれる。カーテンコールの時もそのままの状態で、上の部分はただの装置のような扱いだった。
 対してこの舞台では、上下段が交互に、ある時は両方が縦横に駆使される。また下段で事が起きている時、上の登場人物たちは、テーブルで静かに食事をとっていたり、趣味の時間を過ごしていたり、居眠りしていたりして、無言の物語が進んでいく。観客は動きの大きい下段に注目しながらも、上段の住人たちの生活が継続しているのを、目の端で見るともなく見ている。さらに映像が流れると、それは、下の人物にとっては死んだ家族の姿や声であるのに、上の二人には単なるTVの画像でしかない。
 このように、空間的なメリハリが効いているのに加えて、物語の重層的な進行も、スムーズに受け止められる作りになっているのだ。
 
 舞台では、短いシーンが次から次へと繰り広げられる。いくつかの人間関係があり、話はこんがらがった釣り糸のように交錯する。整理してしまうと作品のテイストが損なわれるし、どうにもまとめきれるものではないので無駄な気もするが、上演台本も参考にして少しトライしてみたい。
 
場所別の登場人物
上段 男と女
下段 踊りたい女の子と動物たちとホームレスドクター
   ビラ配りと男
   嫁と姑
上下段 ネズミと姉(映像のみ)
 
 上段にいるのは、かわいがっていた犬のキクを亡くし、ペットロスに陥っている男と女。二人の間柄は倦怠期にさしかかっているように見える。下段の嫁と姑は、首輪をつけ、ロープでつながれたまま彷徨っている。どちらかがもう一方を引っ張ったり、這いつくばらせたり、またその立場を交替したりしながら。そして、最初は夫婦かと思われた上の二人は実は愛人同士で、男と嫁が夫婦、男と姑が親子だったらしいことが、劇のなかばあたりで判明する。
 下段ではまず、踊りたいという女の子と動物(というか、それにテキトーに扮した人間)たちが出会う。ホームレスドクターと名乗る男は、餌付けをしたりして、彼らを牛耳っているようだ。別のある男はビラ配りの男に出会い、それをきっかけに、まだ見ぬ女を探し始める。ビラの写真だけを手がかりにして。それから、ネズミ(に扮した男)には死んだ姉がおり、映像にだけ現れて弟を責めるが、彼はシスコンのマゾらしく、それを望んでいるかに見える。
 さらに話が進むにつれ、違う組み合わせでの出会いや、段をまたぐ行為も起きたりして、どんどん錯綜度が増していく。
 これらいくつかのストーリーは、作品世界に通奏低音として流れてはいるが、絶対的な力をふるっているわけではない。むしろ見る者は、一場面一場面の、人物たちの丁々発止のやりとりやバカ騒ぎに身をゆだねたくなるし、その方が確実に楽しめるだろう。
 客席を沸かせる場面はいくつもある。立役者は、トリックスターやクラウンの面影を色濃く持つホームレスドクター。サンバっぽいリズムに乗り、ペニスバンドを装着して身をくねらせたり、やおらシャツを脱ぎすて、下から上段に手をかけて派手な懸垂をして見せたり。極めつけは放尿シーンだ。男が上階から、放物線を描いて長々と立ち小便をすると、その盛大なほとばしりでシャンプー。バックには、バート・バカラックの「雨にぬれても」(♪Raindrops keep falling on may head〜)が流れ、照明もカラフルな場内は笑いの渦に包まれる。
 このあっけらかん、すっからかんな狂騒。茫漠としたとっちらかり(ちなみに、サンプルを見に行くのだから、何があっても動転しないようにと腹をくくって行ったのに、陽気な雰囲気もあってか、変態っぽさや嫌ーな感じ度は拍子抜けするくらい軽めに感じたのは、私だけだろうか)。
 
 この芝居では、荒唐無稽なそれぞれの話が、どこにどうつながっているのか、どう転がっていくのかわからない。にもかかわらず、決定的に散漫に拡散的になったりせず、強い弾力性をもったゴムのように、ググーッと客の心を引き戻す。
 その要因の一つとして、きめ細かいリアリティを持つ設定やセリフの流れというのがある。視覚的には極めて奇妙なのに、その図を裏切る、かなり現実的というかせちがらいセリフがついていたりして。
 
男 あの、人を捜してるんですけど。
嫁 私たちもです...
姑 おい、急ぐぞ。タイムセール終わるから。

姑 「かけがえのない毎日を全ての人に感謝しながら生きなさい。」
ウサギ それは...
姑 偉い人が言ってたよ。
ウサギ 誰ですか?
姑 とっても偉い人だよ。うちのカレンダーに書いてあった。

 タイムセールとかカレンダーってところが、生活感に溢れていかにもありそうな感じだ。トイレの日めくりが目に浮かぶ。黒いサングラスをかけた盲目の嫁と姑が首のところでつながれたさまは、マルシア・ガルケスの「エレンディラ」をも連想させて、仰々しくグロテスクにも見えるが、嫁姑同士の会話もほかの人物とのやりとりも、ことごとくしみったれている。
 また、踊りたい女の子とネズミが意気投合し、コンビを組もうという場面。
 
 女 ...私本当言うと、踊りもまあこの辺までかなあって思ってるんだよね...この前ネズミたちに会えなかったら正直、田舎帰ろうと思ってたんだ。まあ田舎帰ってもうちは両親が仲悪くて居場所もないんだけど...でも同居しなきゃダメとかそういう心配はないし、逆に子供を育てるにはいい環境かも...
ネズミ 俺、結婚はしないよ。
女 ...え? なんでそんなこと言うの?
ネズミ いや、先に言った方がいいと思って。へんに期待されても困るし。

 ネズミは、スーパーのビニール袋でちょちょっと作ったみたいな被りものをつけていて、実に安直な扮装なのだが、セリフだけ見ると、まるで一昔前のマジな青春ドラマのよう。
 唐突な例だが、紅白の小林幸子が、装置との境界がなくなったような豪華な衣装で歌うのは、意外にも陰気くさい歌詞ばかり。あの衣装では、絶対に大上段から勝ち組の歌詞を歌ってはならない(と言うか歌えない)。見た目と言葉のギャップが生み出すダイナミズムは、ばかにできないのだから。
 
 ところで、ここに出てくる嫁と姑は、強くガンと出る方と受ける方という、いわばボケと突っ込みの役回りを、コロコロ交替する。立場の上下は入れ替わり、変動するのだ。一方、ホームレスドクターは、動物たちや女の子に対して常に優位に立って、これでもかとばかりサディスティックに力をふるい、その関係は固定的。「通過」などにも顕著だったが、ここでは、支配―被支配という関係が見る者の意識に強く訴えかけてくる。物理的に上下段を有効に使いこなしているだけでなく、人と人の関係も、その上下感が厭らしいほどイキイキと刺激的で、平等・対等といった関係は魅力を持たない。
 
 ラスト近くで、踊りたがっていた女の子は犬の仮面をかぶせられ、ロープで吊るされてしまう。吊るされた女の子は、上段の男女にとっては死んだキクであり、動物たちにとっては、パフォーマンスをやっていて死んでしまった仲間であり、運命の女を探していた男にとっては、まさに運命の女その人であった。だが、この三重性にさしたる根拠はない。見る者はただ、この瞬間に女の子を扇のかなめにして、3つの話がなぜかつながってしまうことにあっけにとられるばかりだ。
 そして、上段の男女は、愛犬を失った喪失感を、自分たちが犬になる(四つん這いになったり吠えたりする)ことで癒し、再生を図ろうとするかに見えるが、そんな話がしらじらしい嘘っぱちであるのはみんなが知っている。探し続けた相手にようやく巡り合えた男が、死んで実体のないその女の子を抱いて踊る、からっぽのダンスだけが延々と続く...。

 フェスティバル/トーキョーのHPには「...『火の顔』では日本人の身体・言語感覚を海外戯曲の中に浮かび上がらせた松井が、人と人、人と物、空間と物など、さまざまなものの間に生まれる『磁場=物語』を見つめる意欲作」とある。
 磁場、磁界といえば、下敷きの上に砂鉄をまき、下に磁石を置く遊びを思い出す。磁石を置いた途端、砂鉄が動いてくっきりとした磁力線を描き出し、N極とS極を示していた。この舞台の登場人物たちは、真の動機や必然性なんぞほっぽらかしたまま、あたふたと、じたばたと、何かに突き動かされるかのごとくに行動し、そのさまは、磁石に忠実に反応する砂鉄のようでもある。だがそこに、美しい磁力線を見出すことはできず、あるのは極のない磁場だけだ。そんな「あの人の世界」の世界に、やっぱり観客の脳髄は確実にマーキングされている。