ディレクターズ・メッセージ Vol.1

  F/T16は開催されます。

  ふと、ディレクターとは何か、と考えてしまう。ディレクターである限りは、なんらかの決定権があるのだけれど、その決定権はなにを根拠にしているのかと問うと、非常に怪しい。ドラマトゥルクとディレクターの違いは何かと考えると、決定権の差にある。もちろん力の強いドラマトゥルクも世界にはたくさんいるが、本来的には権力をもってはならないものだと思う。だから、本質的にはドラマトゥルクとディレクターは両立しない。その場合のディレクターとは、演出家という意味でもあり、フェスティバルや劇場のディレクターという意味でもある。

  F/Tの最高決定機関は実行委員会であり、ディレクターはそこの議決事項であるから、実行委員会によって承認されてディレクターは存在している。形式的な権限はそれを根拠にしている。あくまでも形式的なものだが、形式も大事である。
それではディレクターとは何をするのだろうか。もっとも素朴に考えると、ディレクターはプログラムを作る人である。しかしながら、プログラムを作るためには、方針=コンセプトが必要である。それがないと、ディレクターの最大のというか、つまり最高の任務である説明責任を果たすことができない。しかし、プログラムはそれほど単純にはできていない。プログラムには、様々な力が働いており、それにともなって配慮も当然必要となる。そもそもF/Tには、というかほとんどのフェスティバルには自己財源というものがないので、常に財源の確保との戦いである。もしかしたらあるいは確実に、どのディレクターも資金確保のためのエネルギーとそれに使う時間が突出して多いに違いない。こんなことを誰がすき好んでやるというのか。その点、プログラムを作るのは、どちらかといえば楽しい仕事ではある。とはいえ、世界中のフェスティバル・ディレクターの頭の中は、程度の差はあれ、過半の部分が金のことで占められているのは間違いない事実だし、世界中のディレクターの首が飛ぶほとんどの場合が、資金を出している機関との行き違い、価値観の相違、齟齬ということになる。

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  まあ、でもアート組織の経済性はいつも脆弱だし、毎年薄氷を踏む思いだとしても、創意工夫すれば滅多なことでは潰れないし、継続し続けてもいる。

  いつも気にしているのが、組織のあり方である。システムより人とはいうものの、人だけあって、システムはない、ということも想像し難い。かといって理想的なシステムが発明されているのであれば、誰もがそれを模倣すればよいことになるが、理想的なシステムができたと思い込んでも、数年後には組織疲労が起きて、また手直しすることになるので、その時々の問題意識を大事にして、解決に当たろうと思う。というわけで、これまで作っていたディレクターズ・コミッティという組織は、ひとまず役割を終えることにした。様々な教訓はあるが、チャンスを見つけて明らかにしたい。

  今年度のコンセプトや標語については、次回語ろう。

市村 作知雄

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