メールインタビュー・文 新野守広

(C)Bettina Stoess
(C)Bettina Stoess

16年ぶりの来日公演とスザンネ・リンケへのメールインタビュー

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Susanne Linke 
Photo:Ridha Zouari 1987

スザンネ・リンケ振付の3作品『人間の激情』『アフェクテ』『エフェクテ』がフェスティバル/トーキョー16で上演される。16年前、彼女はラインヒルト・ホフマンとともに来日し、『ユーバー・クロイツ』(2000年11月22日~25日、パークタワーホール)を踊った。不調和の要素が込められていたにもかかわらず、全体的に整然とした印象を残した舞台だった。

今回、彼女自身は踊らず、若い世代のダンサーたちに舞台を託すという。もちろん1944年生まれという年齢もあるだろうが、次世代に託すために選ばれた作品が興味深い。この3作品は彼女が1980年代後半から90年代にかけて振り付けたものだが、すべてドイツ表現主義舞踊の重要な女性ダンサーの一人、ドーレ・ホイヤー(1911-1967)に関係しているからである。

『人間の激情』はもともと1962年にドーレ・ホイヤー自身が振付・出演したソロ作品である。スピノザが『エチカ』第三部で定義した48の感情から「名誉/虚栄心」「欲望」「不安」「愛」「憎悪」の5つが選ばれ、作品化された。リンケは1987年に、このうちの「憎悪」を除く4つを自分や知人の記憶、映像資料などをもとに再現し、新たに「哀しみ」を制作して『人間の激情-哀しみ』というひとつのソロ作品にまとめて踊り、ホイヤーに捧げた。このときの初演が行われたのは、南米のブエノスアイレスだった。戦後の西ドイツではホイヤーの公演にほとんど観客が集まらなかったのとは対照的に、1950年代の南米公演で彼女は熱狂的に歓迎された。ブエノスアイレスで行われた『人間の激情-哀しみ』初演は、この事実を踏まえている。

続く1988年、リンケはデュエット作品『アフェクテ』を共演者ウルス・ディートリヒとともに振り付けて踊った。題名のアフェクテは強い感情を意味するドイツ語Affekt(英affect)の複数形であり、フロイト心理学では「情動」と訳されることが多い。男女の関係をモチーフとするダンスである。さらに1991年、彼女はやはりディートリヒとともにデュオ作品『エフェクテ』を振り付け、踊った。題名のエフェクテはドイツ語Effekt(英effect)の複数形で、効果、作用を意味する。この作品も男女の関係をモチーフとしている。

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ドーレ・ホイヤーに捧ぐ 『人間の激情』『アフェクテ』『エフェクテ』
構成・振付: スザンネ・リンケ
12/9 (金) ─ 12/11 (日) 会場:あうるすぽっと

 

このように今回の来日公演で上演されるダンスは、表現主義舞踊の重要なダンサーでありながら、今ではほとんど忘れ去られたドーレ・ホイヤーをめぐる3作品である。そこでFT Focusではドーレ・ホイヤーの生涯を振り返ろうと思うが、その前に、リンケさんから届いたメッセージを紹介しよう。今回の来日公演は、自分の経験を次の世代に継承してもらいたいという彼女の思いをダンスとして受け止める機会でもあるため、F/T事務局の依頼を受けて、彼女にメールでインタビューを行った。インタビューでは今回の公演の意義や3作品の成り立ち、彼女のメソッドについて丁寧に答えていただいたばかりか、ワークショップ参加者や日本の観客へのメッセージも添えられているので、以下読んでいただければと思う。

問:今回、日本で上演される『人間の激情』は1987年に、『アフェクテ』は1988年に、そして『エフェクテ』は1991年に初演されています。今年は2016年ですので、3作品が初演されてからほぼ4分の1世紀が経ちました。今、なぜこれらの作品を再び取り上げようと思われたのですか?

リンケ:たしかにこれらの作品を初演して以来、月日は経っていますが、すくなくともここ3年間、私は昔のデュエット作品『アフェクテ』のコンセプトを再び取り上げて活動してきたのです。なぜかというと、ヨーロッパのダンスでは、踊りの地平を生き生きとしたものにし、かつそれを維持することが、とても重要な関心になったからです。昨年私は、ルクセンブルクとの国境に近いドイツ西部の町トリアーの市立劇場に新しいダンスカンパニーを作りました。新しい劇場には、私のこのような願いを実現するための体制が整っています。大変幸せなことと思っています。今、私は、これらの3作品をまとめて上演することができるのですから。このようなことはこれまで不可能でした。

問:この3作品はドーレ・ホイヤーをテーマにしています。しかも初演の際、あなたはこれらの作品を振付されたばかりか、ご自身でも踊られました。ドーレ・ホイヤーへの関心の高さはどこから来ているのですか。

リンケ:ドーレ・ホイヤーは戦前の表現主義舞踊のなかでも、もっとも偉大な踊り手の一人です。私自身、彼女と個人的に知り合うことができましたし、彼女をわが身で体験することもかなえられました。その彼女を忘却から救い出したいというのが、初演の際の私の心からの願いでした。第2次世界大戦が終わると、ドーレ・ホイヤーはダンス界の主流から外れてしまい、注目されなくなりました。経済的にも苦しい生活を余儀なくされた彼女は、まるで舞台から引退したかのような生活をしていました。このような彼女の姿と彼女のダンスを忘却から救い出して、彼女の仕事の意義を若い世代のダンサーたちに意識してもらいたいと強く望んだのです。

問:これらの3作品は、いわばひと続きのシリーズでしょうか。

リンケ:そうです。ただ、『アフェクテ』(1987年初演)では、男女のペアが愛、憎しみ、嫉妬などの感情をめぐって対立しあう姿が、現在の相で生じます。一方、『エフェクテ』(1991年初演)も同じデュエットの作品ですが、こちらは未来にまなざしを向ける作品です。それは、ある意味で悪夢であり、世界に対する関係と隣人に対する関係が汚染され、失われてしまった世界です。

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『アフェクテ』_photo:Ridha Zouari                     『エフェクテ』 photo:Bettina Stoess

問:若い世代のダンサーたちにホイヤーの意義を意識してもらいたいというモチーフをうかがいましたが、若い世代にホイヤーを伝える際のリンケさんのメソッドについて聞かせてください。

リンケ:私は自分のメソッドを「内的な宙づり状態」と名付けています。これは身体、心、精神の統一を包括するものです。私にとって重要なのは、繊細な素材にもとづく正確な質(quality)です。これを私は、ある特定の表現に到達するために、ダンサーたちに伝えます。今回の場合でいえば、「アフェクテ」(さまざまな激情や情動)というテーマ系に到達するために行っているのです。

その際、表面的で外的な形を満たすことが重要なのではありません。空間に対する関係において、さまざまなエネルギーの形と緊張を知覚・感覚化することが大切です。
新しい世代のダンサーは、以前の私たちの世代がそうであったのと同じ様に、とても多様で、複合的(multiple)です。しかも、若い世代のダンスのテクニックは、30年前と比べると、能力的にはるかに高くなっています。私が一緒に作品を作るダンサーは、おもにエッセンのフォルクヴァング芸術大学でダンスを学んだ若いダンサーたちです。そこでは私も教えていましたので、彼女たちと学びの過程をともに過ごしました。彼女たちはすでに私の目標の方向を理解できるのです。

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Photo:OLIVER LOOK 『アフェクテ』稽古の写真

問:日本ではワークショップの開催も予定されています。ワークショップ参加者も含めて、日本の観客に向けてのメッセージをお願いします。

リンケ:私は身体を使って表現を行うダンサーですので、言葉でメッセージを伝えることは、それほど簡単なことではありません……。ただ、こういうことは言えるでしょう。日本の舞踏の伝統に立つたくさんの踊り手たちは、私が最初に師事した偉大な表現主義舞踊のダンサー、マリー・ヴィグマンを参照してきました。いわゆるドイツ表現主義舞踊と日本の舞踏との間には、密接な結びつきがあるのです、と。
皆さんの日本でも、ここドイツでも、ダンスにとって大変重要なのは、表現の明確さです。これは身体との正確な作業によってのみ実現できるものです。

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Photo:OLIVER LOOK 『エフェクテ』稽古の写真

身体を使って表現を行うダンサーに対して言葉による返答とメッセージを依頼した非礼を恥ずかしく思うが、それにもかかわらず、丁寧な答えを返していただいたリンケさんに心から感謝したい。
なぜこの3作品を選んだのかという最初の質問に対して、彼女は「ヨーロッパのダンスでは、踊りの地平を生き生きとしたものにし、かつそれを維持する」ことに関心が向かっていると答えている。フォルムに感情を込めることの大切さを語っているのだろうか。ちなみに表現主義舞踊(Expressionistischer Tanz)は、ドイツ語では一般にAusdruckstanzと呼ばれている。Aus(外へ)druck(s)(押すこと)tanz(ダンス、踊り)が組み合わさってできている言葉で、内的な感情やイメージの表現を重視する表現主義(Expressionism)のダンスを表すのにふさわしい用語として理解されている。2016年の時点でドーレ・ホイヤーに捧げた3作品を若い世代のダンサーたちの手で再演しようと試みるリンケの目には、現在のヨーロッパのダンスが表面的な形式やテクニックの追求から、人間が踊ることの根っこにある感情を重視する方向へ軸足を移していると映っているのかもしれない。

ドーレ・ホイヤーの生涯:『人間の激情』にいたるまで

こうして彼女から「戦前の表現主義舞踊のなかでも、もっとも偉大な踊り手の一人」と称賛されているドーレ・ホイヤーだが、どのような生涯を送ったダンサーなのだろう。ここではケルン市ドイツ・ダンス・アーカイブの紹介をもとに、彼女の生涯を振り返ってみよう(http://www.sk-kultur.de/tanz/hoyer.htm)。

ホイヤーは1911年にドレスデンの左官工の4人目の子どもとして生まれた。体操の授業が大好きだった彼女は、1928年(17歳)の時、ダルクローズのリトミック学校の卒業生が開いた体操学校に通い、体操教師の資格を得ると、パルッカがドレスデンに開いた学校に入り、1931年/1932年シーズンにソロダンサーとしてデビューした(20歳)。

この年彼女は、当時18歳の音楽家ペーター・ツィースラクと恋に落ちた。彼が曲を書き、彼女が踊るという共同作業は、1933年のソロの第1作となって結実した。生計を立てるために彼女は遠く離れたオルデンブルク市の劇場に勤め、オペレッタの幕間にかかる踊りの振付を担当した後、1934年から35年にかけてドレスデンに戻り、さらに2本のソロ作品を完成させた。しかし二人の共同作業は、彼の自殺で幕を下ろす。絶望から立ち直った彼女は、ダンス以外に人生の意味を見出すことができず、自分のダンスを続けることを誓ったという。

彼女はマリー・ヴィグマンの集団制作に参加する一方、ソロ活動を再開した。作曲家ディミトリ・ヴィアトヴィッシュと出会うのもこの頃である(『人間の激情』には彼の曲が使われている)。しかし、すでに1933年にヒトラーが政権を掌握していたドイツでは、彼女のソロ作品はまったく認められず、自腹を切る以外に作品を発表する機会はほとんどなかった。こうして自前で新作ツアーを行ったために生活は苦しく、友人たちの部屋に泊まってなんとかしのぐ有り様だったという。

第二次世界大戦が始まると、所属先のダンスカンパニーが国防軍慰問のためのバレエ団に組織替えされたりしたが、彼女はドレスデンの国民劇場にソリストとして採用された。民間の軍事工場で慰問公演を行ったり、オペレッタのためにバレエを踊ったりする日々だったが、このような状況でも自分のソロ作品を発表するためツアーを続けた。生活は苦しいままだった。

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Dore Hoyer “Afectos Humanos – Avidity” photo:Enke Lmann

敗戦直後の1945年6月、ホイヤーは仲間のダンサーや音楽家とともにドレスデンのヴィグマンの学校跡に自分たちのダンススタジオを設立し、『ケーテ・コロヴィッツのためのダンス』と題するシリーズを発表した。1947年、ドレスデンを管轄するソ連の文化担当官から「形式主義」と批判された彼女は(旧社会主義諸国では「形式主義」と批判された芸術家は、以後の活動が著しく制限された)、翌1948年にソ連占領地域(東ドイツ)を去り、アウグスブルク(西ドイツ)に移った後、ハンブルクの州立オペラ座のバレエ部門主任となった。ここではソロ作品以外の集団制作も行った彼女は、1950年に初演された『見知らぬ男』をはじめとする3作品が評価されて、1951年に批評家賞を受賞した。その一方で、バレエ部門をモダン・ダンスのアンサンブルに変えようとした彼女の努力は実を結ばなかったため、1951年に退団。1950年代から60年代にかけてさまざまな劇場で演出の仕事を行ったが、ソロダンサーとしてのホイヤーに積極的な関心を示す劇場監督は皆無だったという。そのため彼女は自分の負担で劇場を借りて自作のソロ公演を続けた。

1952年、作曲家ディミトリ・ヴィアトヴィッシュとともにアルゼンチンとブラジルへのツアーに招待された彼女は、当地で熱狂的な歓迎を受けた。高揚した彼女は、その後数年間、南米ツアーを敢行する。一方ドイツ国内では、彼女のソロ作品はほとんど注目されない状態が続いた。1954年には事故で膝を負傷するというアクシデントに見舞われ、以後痛みに耐えてソロ公演を続けた。

1957年、マリー・ヴィグマンの紹介で第10回アメリカ・ダンス・フェスティバルに招待されたホイヤーは、マーサ・グラハム、ドリス・ハンフリーらと知り合う。また、アルゼンチンの教育省からの申し出を受け、ブエノスアイレス近郊にダンスカンパニーを設立するためにドイツを離れたが、予想外に言葉の壁は大きく、1962年に帰国した。

この年に制作されたのが、今回の来日公演の冒頭に置かれた『人間の激情』である。スピノザが『エチカ』第三部で定義した48の感情から「名誉/虚栄心」「欲望」「不安」「愛」「憎悪」の5つを選び、ソロに仕上げた作品だが、そのうちのどの部分が今回の公演で上演されるのかは現時点では未定であるという。いずれにせよ感情は個人の思いを離れ、身体の動きとともに明確に定められているはずである。

スザンネ・リンケ振付の『人間の激情』『アフェクテ』『エフェクテ』

ここまでドーレ・ホイヤーの生涯を『人間の激情』までたどってきたが、あきらかに彼女のキャリアにはいくつもの不運が重なっている。
まず彼女は、表現主義舞踊に決定的に遅れて登場した。20歳でソロダンサーとしてデビューしたのは1931年だが、音楽と体操をセットに世界的に普及したリトミックを考案したダルクローズがドレスデン近郊ヘレラウにE・J=ダルクローズ・リトミック・音楽学校を開いたのは、この20年も前の1911年だった。同年、マリー・ヴィグマンもここで学んでいる。その前年の1910年にルドルフ・ラバンがミュンヘンに開いたダンスの拠点は急速に新しい舞踊の中心になり、ラバンはスイスのアスコーナのモンテ・ヴェリタにも学校を開いた。ヴィグマンはモンテ・ヴェリタに移り、ラバンの指導を受け、1917年にチューリヒでソロ公演を行った。

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Dore Hoyer “Afectos Humanos- Love” photo: Enke Lmann

このように第一次世界大戦直前にその萌芽が生まれた表現主義舞踊は、「黄金の20年代」と言われる1920年代に一世を風靡した。1917年にチューリヒでソロ公演を行ったとき、ヴィグマンはすでに30歳を過ぎていたが、遅咲きの才能を開花させる時節はまさに到来していたと言える。一方、ホイヤーがデビューした1930年代、時流は急速に右傾化した。1932年に『緑のテーブル』(パリ初演)や『大都会』を発表したクルト・ヨースが1933年1月のヒトラー政権掌握後の9月に亡命を余儀なくされたことが思い出される。

こうしてホイヤーは、才能の開花すべき時期がヒトラーの政権掌握から第二次世界大戦の期間と重なった。そればかりか、戦後の混乱期から高度成長期にかけての1950年代と60年代に西ドイツでソロ作品に注目が集まる機運が生まれなかったことも、膝の痛みに耐えて踊り続けた彼女には不運だった。1970年代、ピナ・バウシュやヨハン・クレスニクらが「タンツテアター」の新しい形式を試みたとき、注目を集めたのは集団制作である。
1967年、ホイヤーは西ベルリン市のツォー駅前の大劇場テアター・デス・ヴェステンスを自費で貸し切り、ダンスの夕べを開いた。しかし集まった観客は100人程度を数えたに過ぎない。彼女のダンスは受け入れられず、理解されなかった。この年の12月、2度目の批評家賞を受賞したにもかかわらず、大晦日に彼女は自殺した。

21世紀に入って久しい2016年、ピナ・バウシュの4歳年下で、ピナ・バウシュが主宰していたフォルクヴァング・ダンス・スタジオのダンサーでもあったスザンネ・リンケは、ホイヤーが1962年に初演したソロ作品『人間の激情』に注目している。自身もソロダンサーとして高く評価されてきたリンケは、彼女の関心を新しい世代のダンサーたちによる再演を通して示す。

彼女の公演を通して私たちは、表現主義舞踊の受容をめぐる追想の旅に出るだろう。ヘララウのE・J=ダルクローズ・リトミック・音楽学校を山田耕作や小山内薫が見学したのは1913年。同年から翌1914年にかけて同校に在籍した伊藤道郎は、ロンドン、アメリカへ渡った。1923年から1925年にかけて、ベルリンでの公演を皮切りにヨーロッパ・アメリカツアーを敢行した石井獏も、やはり同校でリトミックを学んでいる。江口隆哉・宮操子夫妻は1932年にマリー・ヴィグマン舞踊学校に入学。ベルリン公演を経て帰国後、モダン・ダンスの普及に努めた。その江口宮舞踊研究所に1936年に入った大野一雄は、スペイン舞踊のラ・アルヘンチーナの来日公演(1929年)を観た5年後の1934年に、ヴィグマンの弟子ハロルド・クロイツベルクの来日公演を観ている。秋田生まれの土方巽は、戦後秋田市にモダン・ダンス研究所を開いていた増村克子(江口隆哉門下)の下でノイエ・タンツを学んだ。

スザンネ・リンケ振付の『人間の激情』『アフェクテ』『エフェクテ』を観る観客は、1910年代以降のさまざまな時期のヨーロッパ・日本のダンスの記憶を旅しながら、その視線を未来に向けるに違いない。

 


ドーレ・ホイヤーに捧ぐ 『人間の激情』『アフェクテ』『エフェクテ』
構成・振付: スザンネ・リンケ

ft_1606-01ダンスの歴史を未来に手渡す。生けるダンスアーカイブの尽きせぬ創造

ドイツ表現主義舞踊の流れを汲み、ピナ・バウシュらと共に、現代ドイツの舞踊表現を牽引してきたスザンネ・リンケが16年ぶりに来日。自らをダンスの道に導いたドーレ・ホイヤーに捧げる3作品を上演する。
1987年に初演された『人間の激情』は、現代ダンスの金字塔とも称されるホイヤーの同名作品(1962)を写真や映像などから再現した作品。さらに、ホイヤーも参照したスピノザの『感情論』を踏まえつつ創造されたのが、『アフェクテ』(1988)、『エフェクテ』(1991)だ。徹底した身体の強度を感じさせるソロ『人間の激情』と、カップルの間に流れる感情を扱うデュエット『アフェクテ』、そして、同じくデュエットでありながら、感情を排した「効果」を題材にした『エフェクテ』。異なる味わいを持つ3作品を、リンケは今回初めて、若い世代のダンサーに継承し、自作の再構築を試みる。ホイヤー、リンケの身体を通過したダンスの歴史が未来へと拓かれる、その貴重なプロセスを目撃せよ。 詳しくは→

会場 あうるすぽっと
日程 12/9 (金) 19:00、12/10 (土) 13:00 / 19:00、12/11 (日) 13:00 チケットは→

 

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(C)Bettina Stoess

スザンネ・リンケ
振付家、ダンサー
1944年生まれ。ドイツ表現主義舞踊創始者の一人、マリー・ヴィグマンに師事。その後エッセンのフォルクヴァング・スクールにて学び、ピナ・バウシュが芸術監督をつとめていたフォルクヴァング・ダンス・スタジオのダンサーとなる。80年代半ばから、国際的なソロダンサー、振付家としてのキャリアを積む。ブレーメン劇場やコレオグラフィック・センター・エッセンの芸術監督をつとめ、01年より、再び振付家、ダンサーとして独立。2015-16年シーズンよりトリアー市立劇場ダンス部門の芸術監督に就任。

 

新野守広(にいのもりひろ)

1958年生まれ。演劇評論。著書に『演劇都市ベルリン』『「轟音の残響」から―震災・原発と演劇―』(共著)など。訳書に『ポストドラマ演劇』(共訳)『火の顔』『最後の炎』など。第2回小田島雄志・翻訳戯曲賞受賞。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会長。立教大学教授。