身体が考える――神村恵カンパニー『飛び地』

 今回の若手公募プログラムの演目に横断的にみられた特徴のひとつに、「退屈の活用」という動きがあったように思う。観客の体験が笑いや感動やカタルシスといった既存の快楽に回収されないよう、退屈な状態を故意に舞台上に作り出そうとしていた作品もあれば、作り手の意図とは無縁に、観客の感想に退屈という言葉が頻出した作品もあるが、いずれの場合においても複数の作品から、「退屈に酷似した新しい何か」を舞台上に生起させようとする狙いが感じられた。もちろんその試み自体、じつにきわどいゲームである。


 神村恵の『飛び地』もまた、表面的にはきわめて退屈な作品である。この作品の退屈さとはストイックなまでに盛り上がりを欠いた単調さであり、それはある行為や運動やリズムや音の反復と持続から生み出されている。客電がついたまま上演が始まると、両袖から現れた神村恵、栩秋太洋、福留麻里の三人が少しずつ中央に移動し始め、やがて痙攣のような、嗚咽のような、痒いところを搔いているような、何かを産み出しているような、三様のリズムと動きで小刻みに体を揺らしたり擦ったりし始める。そのうちそれぞれの体から白い紙切れが現れる。三人はひとりずつ、その紙を見たり見なかったりしながら、他のダンサーに体の部位にまつわる指示を出していく。それは例えば、「右の眼球の表面に大量の汗が溜まっている。汗を乾かしたい。風が吹くことによって汗が乾く状態にしたい」、「首と同じ太さの筒が頭に入っている」といった抽象的でメタフォリカルな指示であり、パントマイムのような身振りで逐語的に表現できる類のものではない。指令を受けた者は、周囲に散らばる段ボールや霧吹きやガムテープや台車といった小道具と自分の体とを使ってその指令を実行する。基本的にはこの「指示―実行」のセットが七五分のあいだ順繰りに淡々と続けられる。

 作品のルールがわかってしまうと、そこに意外性はほとんどない。突飛な指示も、それに呼応しているようにはまるで見えない動きも、逸脱や脱線や転換なく同じように繰り返され、観客が抱く次に起きる事の予想(いま見ていることのヴァリエーションが続くのだろう)を裏切らないため、それは基本的にはひどく単調で退屈なものになる。ダンサー達の動きの多くは私たち自身が日常生活でするような動作であり、舞台上に転がる小道具も私たちが見慣れた日用品である。だが、このめぼしいものが見当たらない舞台、客席とほぼ地続きの舞台を見ているうち、目の前で繰り広げられている出来事が、私たちの身体の有り様そのものであることに気づく。その途端、舞台は壮大な土地のように拡がり始め、私たちは自分の身体という見たことのない場所をめまぐるしく旅することになるのである。

 「指示―実行」の反復を見つづけるうち、私たちの頭にはさまざまな疑問が湧いてくる。彼らの体を動かしているのは一体誰なのか。そこで動いている体は一体誰のものなのか。本当の指示書はどこにあるのか。こうした問いを誘発する場面は、三人が舞台中央に進んでいく冒頭から始まっている。彼らは他の二人の出方を窺ったり、動作に呼応したり無視したりしながら、即興的な順序・速度・距離で動いていく(ようにみえる)。彼らの移動という行為を遂行させているのは、その行為者なのか、それとも他の二人の存在なのか。彼らを動かすのは彼らの意志であると同時に場の作用である。日常生活において空気を読むとか、流れに任せるとかというときのように、私たちの一挙手一投足は私たちによるものであり私たちがさせられているものであり、そのバランスも環境に応じて流動する。

 体を「動かす―動かされる」の権力関係は、人と人の間だけに留まらない。本作はさらに、人と物との間にも生じる関係性にも踏み込んでいく。そこで、三人のダンサーの身体、指示書、小道具、舞台上にあるすべてのものの等価性が、私たちに恐ろしいほど突きつけられている。神村は、指令の意図も内容も、ダンサーの動きも、床に散らばる物たちも、すべてを等しく解釈不可能なもの、意味に回収されないものとして舞台に配置する。体から現れた「指示書」は、彼らを動かす源であり法であると見なせばそれは彼らを支配するものだが、くしゃくしゃになって地面に置かれたそれは床に雑然と置かれたゴミ屑と変わらない。自分の体の器官の一部のようであり、皮膚の垢のようであり、まったくの異物のようであるその白紙は、どこに属するのかけっして定めることのできない、時間と空間のなかで永久運動を続ける何かである。この指令が彼らの体にもう一度帰り、体をくぐり抜けた声となって発話されるとき、その呼びかけは、他者の行動原理と誰にも聞き届けられることのない独白との間でさまよい、けっして十全に遂行されることはない。

 人と物との間で結ばれているのも、こうした定位できない関係性である。段ボールで作ったブーツのようなものに足を突っ込む仕草に端的なように、物を摑んだり動かしたりするとき身体は物にまで拡張され、物は身体に入り込む。私の体には誰かの、何かの一部が埋め込まれ、私は別の誰かや何かに自分の一部を埋め込んでいく。私の一部と他者や物の一部とは、相互の輪郭を超えて、不断に干渉しあいながら転位し転置していくが、それが通過していった痕跡は身体と物の双方に刻み込まれる。舞台上で行われている人と物とのこうした交渉を見ているうち、彼女は霧吹きを摑んでいるのか、霧吹きに摑まされているのか、霧吹きが彼女を摑んでいるのか、それが段々わからなくなっていく。そして、今目の前で行われていることとは、私たち自身が生活の中で常にしていることであること、さらにいえば生きることであることにふと気づくとき、まるでダンサー達の身体に自分の身体の一部が埋め込まれているような、自分の身体にダンサー達の身体の一部が埋め込まれているようなイメージの感応が起きる。その経験は、私たちの身体が、それと取り巻くあらゆるものに含まれあっていることの何よりの証左にほかならない。私が舞台を眼差すとき、私はそれを眼で観ているのか、頭で観ているのか、意識で観ているのか。見ることによって見返されるというとき、この作品を見ている私を見返してくるのは、形而下の身体なのである。

 こうして『飛び地』は、命令と実行、能動と受動、部分と全体、有機物と無機物、言葉と動きといった様々な線引きを曖昧にし、それによって普段意識せずに動かしている私たちの体の様態を、その主体性の所在を、その所在が点在しつねに移動していることを、徹底的にあぶり出していく。それと呼応するように、体の部位に関する指令は、後半になると、次第に架空の場所の描写に代わっていく。「呼びかけ」の失敗、言語と行為のズレ、行為の反復によって生み出されるズレ、現前で生起するものとそこから生成されるもののズレ。そうした様々なズレが観客の脳内に強烈なイメージを呼び起こし、身体の部位と場所とが一続きになった風景となって出現する。

 解釈し理解することが支配や搾取の一形態であるとすれば、解釈不可能である舞台上の出来事と観客とのあいだの「観る―観られる」、「見せる―見せられる」の力関係もここでは拮抗している。そして作品は、単調かつ退屈にみえる場に飛び交っている見えない運動や力、せめぎ合いぶつかり合い溶け合う運動や力のダイナミズムを見つめるよう観客に要請している。それはきわめて集中力を要する観賞=干渉である。神村は、シンプルなルールとミニマルな動きで、観客それぞれの身体の地層を少しずつ掘り起こし、ときに苛烈なまでの上演の体験へと昇華させる。そこに立ち会い、そこで起きていることに全力で参与していかなければならない舞台でしか起こりえない出来事。『飛び地』とはまさしくそうした出来事であったといえる。

 とはいえ、ひとつ惜しいと思うところもある。それは美術の小林耕平の位置取りだ。彼はテレビ番組におけるADのように画用紙に指示を出して三人を外側から操作しようとするが、ダンサーたちは、ちょうど指令と実行のズレと同じように、気づいているようないないような態度でやり過ごし、小林の介入はうまく機能しない。美術係は絵画における額縁のように舞台の輪郭を縁取る存在であり、一番外側に眺める観客がいて、小林がいるという作品の入れ子構造は、主体性の所在を幾重にも追尾不可能にする意味深い存在であったにせよ、私の観た回では小林がいることで生まれる作用が作品とうまく噛み合っておらず、いまひとつ消化不良だったように思う。

 最後に、この作品の重要な要素である即興性について。彼らの動きが本当に即興なのかどうか、どの部分までが即興なのかははっきりとはわからない。それも理解不可能な要素のひとつとなって、「ここで起きている事は何なのか?」と考えるドライブにもなるし、問題は即興であるかどうかの真贋ではなく、観客にとって即興のようにみえるかどうかかであるともいえる。だが一方で、この即興性は、物として、具象としての身体を現前させる本作の成立条件に抜きがたくある。真の退屈と退屈に似た何かは似ているようで質的にはまったく異なるが、それと同じ事が、「即興と即興にみえること」にも、また「即興の判別不可能性と存在の理解不可能性」についてもいえるのではないだろうか。

 また、即興が占める部分が大きいということは、指令の内容、実行する際の即興的な動き、客席の反応、公演を重ねるうちの変化などから、各回の印象が大きく異なることを意味する。だから私がこれまで書いてきたことは、他の回を見た人にはまるでピンとこないかもしれない。だがそれこそ、舞台表現のありうべきかたちだろう。しかしその一方で、そこで観客がひとしく目にしたものが、<彼ら自身のものであり私たち自身のものである>身体であること、それだけははっきりと確信をもって言うことができる。

小澤英実