舞台の中心で「無駄」を叫ぶ――岡崎藝術座『古いクーラー』

エコブームである。エコナビ、エコカー、エコバッグ......。名詞に「エコ」の二文字をつけるだけで、地球にやさしくなった気がする。ちょっと昔までは、「平和」や「人権」ということばが、そういう機能を果たしていたのだろう。エコの時代にあっては、とりあえずエコという言葉さえ出しておけば、周囲の人々の思考を停止させ、無難に事を進めることができる。と、そういうことになっている。

同様に、舞台のうえで俳優が観客に向けて発することばは、無駄であってはならない、と考えられている。しかし、岡崎藝術座の『古いクーラー』は、「無駄」だらけである。この作品は、劇場における「エコ」な考え方に一石を投じている、とそういうことになるのだろうか? 

舞台上には下手奥に鉤型にソファが並べられ、上手にパイプ椅子が一脚だけ置かれている。ここにまず、7人の若い男女が登場してソファに座り、その直後に1人の男が登場して椅子に座る。7人はどうやら、おすすめのスイーツを紹介しあうサークルらしい。別段スイーツをめぐって物語が展開するわけではない。7人(+1人)は、順番にひとりずつ舞台中央の演技エリアに進みでて「自分語り」をするのだが、その語りから察するに、彼らは時として、クーラーとなる。

大量の蚊と旧式の扇風機を前に登場したクーラー、高度経済成長とともに生きた会社のなかのクーラー、田舎の駅前にあるラーメン屋のクーラー、家電リサイクル法で処分されそうになっているクーラー......そうしたさまざまな「古いクーラー」の話が、俳優のワンマンステージによって展開される。だが、彼らはたんに「クーラーの話をする人」でもなければ、「クーラー自身」でもない。その両極をゆらぎながら、「クーラーの話をする人」となったり、「クーラー自身」になったりする。

たとえば、冒頭に登場する黄色い花柄のスカートを着た女性(宇田川千珠子)は、たどたどしい口調で、夏の蚊に対する苦悶を嘆きながら、クーラーの発明を幸せに感じている。

   蚊への殺戮が祭り状態で、パチリ、パチリと自分の肌を叩く、あの夏のすごくすごく暑い夏。
   やつはこの部屋に、爆発的に増加中の様子。[......]風通しをよくしようと素人の発想でそ
   うっと窓を開けたのがよくなかった。網戸にしてもどこからか入ってくる、きみたちからモテて
   も、とてもうれしくない、言ってもきみたちは蚊。二進も三進もいかなくなって、部屋のどっち
   も窓を閉めた。決めた、君たちをもう殺したくない、もう通らない。風は通らない。[......]だ
   からわたしは発明されたクーラー。ピッ! ひゅー。ひや〜ァ。ピッ! ひゅー。ひや〜ァ。
   ヒヤシンス、風が吹いてきて、春の記憶が戻るものだなぁ。川のせせらぎが、せせらぐなぁ。

役者が演じている「わたし」は、台詞の進行(時間の進行)とともに、少しずつずらされてゆく。大きな流れから言えば、夏の暑い部屋で蚊と苦闘している女性から、部屋に導入されたクーラーへ、そして快適になった部屋で春風を感じている女性へと、ずれていくのがおわかりだろう。しかし、このような主体の変化を促しているのは、物語の必然的な展開ではない。台詞の一部は、直前の言葉の語感やリズムによって導き出されている。その連鎖によって蒸し暑い部屋は、いつの間にか、春風吹く土手へと場面が映っていくのである。

もちろん、上演台本の台詞はそのような原則だけから書かれているわけではない。パンフレットにも書かれているように、稽古では「いいかげんな」連想ゲームも行われたようで、ゆるやかなイメージの連鎖が、『古いクーラー』におけることばの連なりに一役買っているようだ。だが、この作品のなかで最も大きな構成要素となっているのは、「さまざまな特徴的な口調」であろう。先の引用箇所で言えば、「〜だなぁ」というおっとりした口調は、語られる内容と語る役者の身体と一体となっている。

二番目に登場する黒いパンツスーツの女性(菊川恵里佳)は、ある同族経営の会社の話をするのだが、ここでは直前の「〜だなぁ」とは打って変わって、「〜ですます」、「〜ですがますが」という発語となる。このどこか調子の狂った口調は、語っているガチガチの内容(=社史)に合わせられているだけではなく、どうやらガタガタの(でも現役の)クーラーの語りとして、採用されている。しゃべりすぎて、語尾がさらに狂い出したクーラーは、おそらく直後に廃棄されることになるのだろう。

このあとも腰の低い営業マン風の男のだらだらした語り(菅原直樹)、「古くさい」演劇をする女優の芝居がかった語り(森本華)、自分でボケて自分でツッコむ勢いだけの若い女性の語り(中林舞)などがつづく。かくして、複数のワンマンショーから構成されている理由は、ご想像の通りである。「語り方」がまったく異なる人物(クーラー)たちを同時に舞台上にあげたら、場の均一性はまるでとれなくなってしまう。そんなことをしたら、なにがなんだかわからなくなってしまうだろう。

ところで、このような構成法は、岡田利規の『フリータイム』(2008年)や「お別れの挨拶」(2009年)におけるような私的モノローグからの影響が大きいように思われる(神里は2008年に川崎アートセンターとお江戸上野広小路亭で岡田利規の『三月の5日間』を2パターン上演している)。たとえば、「お別れの挨拶」という戯曲は、派遣を「卒業」する「エリカさん」が滔々としゃべるというものである。

  ......あの、今日まで、約2年とさきほど、ありましたけれども、細かいこと言うと、2年弱ですね、
  2年には少し足りないくらいなんですけど、こちらでお世話になりまして、ほんとうに、そうで
  すね、2年弱というのは、振り返ってみて、やっぱり、長いようで、短いようで、という感じで
  したけれども、とにかく2年弱、ほんとうに、やってきたんだなあ、というふうに、今は、思い
  ますね、つくづくですね、この職場、わたしは、ほんとうに、ここは素敵な職場で、ここの人は
  みんな、とっても、そうですね、ほんとうに、まあ、いい人たちで、一応、そういった人たちに囲
  まれて、過ごすことができたというのは、とっても、そうですね、幸せなことだったなあ、という
  ふうに思いますけれども、とっても、これは、ありがたいことだったなあ、と思って、こんなに幸
  せなことは、もしかすると、わたしの人生には、もう、この先は、ないかもしれないないなあ
  と思って〔......〕    (『エンジョイ・アワー・フリータイム』、白水社、2010年、43-44頁)

岡田の紡ぎ出すことばにも、「無駄」が多い。それは主に、副詞であったり、間投詞であったりと、「文法的な」無駄である。この部分でいえば、「働いた期間は2年ではなく正確には2年弱だが、素敵な職場で今後味わえないくらい幸せだったと思う」という意味内容なのだが、そのように書いてしまっては漏れてしまう部分を伝えるための「レトリック=無駄」である。逆にいえば、岡田のことばには論理的な飛躍がない。目的地は決まっているが、そこに至るまでの蛇行を楽しむ、いわば「時速30キロのF1レース」のようなものだ。

これに対して、神里のことばの「無駄」は、すこし性質がちがう。登場人物の「語り」は、リズムやテンションによって、本人にしか事情がわからない「私的言語」へと接近していく。そのため、曲がるポイントはあるのに、目的地がわからないのである(観客は笑うこともなかなかできない)。喩えるならば、これは「俺、この曲に好きなんだよね」と、ものすごくマイナーな曲をカラオケで聴かされるのに似ている。もはや、うまいのかどうかさえわからない。

一言でいえば、『古いクーラー』は、7人それぞれが熱心に自分の好きな曲を歌いきった、そういうパフォーマンスである。「ハナレグミ」を歌った人がいたかと思えば、つぎは「ガンズ・アンド・ローゼズ」、と思ったらそのつぎは「ももいろクローバー」、そのつぎには「RHYMESTER」......そんなふうに90分ほどの時間がすぎてゆく。実に、実に「無駄」な90分である。

ーーと、そのように思う観客を前にして、ついに上手側にひとり座っていた男(NIWA)が前に出る。この男は7人のクーラーから一人を呼び出して(誰を選ぶかは俳優に任せられているらしい)、「説教」をはじめるのである。上演台本を読んでみるかぎりにおいて、この台詞には、7人の誰を選んでもいいように、7人の特徴的な台詞が少しずつ散りばめられているようだ(それがどの程度観客に伝わっているのかは、非常に心許ない)。そして、この男は次のように述べる。

  だけど! ちょっと知ってほしいのさ。君のため、ちょっと話してみたいのさ。共有できる気分に
  なりたいのさ。嫌な顔されるのは嫌さ。だけど、恐怖は密の味。ちょっとスリルを味わいたい
  のさ。君を信じていたいのさ。信じるって存在するかもわからないまま、通じ合うことなんてで
  きることなのかもわからないまま。自分の知っている素晴らしい景色を、君にも伝えたいのさ。
  僕が楽しいときには、君にも楽しくいてほしいのさ。だからぶつかり合うことを、怖がりながらも
  やっていくのさ。

あえて劇作家の意図を読み込むならば、7人を俯瞰する位置にいる男の台詞のこの箇所だろう。「劇作家の描いているイメージは、観客に伝わらないかもしれないが、それでもなお上演しなければならない」と、そういうことなのだろうか? つまらない芝居だったと批判されることに対しての前もってのエクスキューズだろうか? そうであるなら、舞台上での「無駄」(に思われるようなこと)はすべて、正当化されるのだろうか?

私見をいえば、ここでいわれていることは、とても理念的であり、とてもわかりにくい。観客は、結局、伝えたいことは、何なのかと劇作家=演出家に問いただすこともできるだろう(正直、わたしもよくわからない)。だが、明確に言語化できないからこそ、「通じ合うことなんてできることなのかもわからないまま」、会話をつづけなければならない、というのもまた事実だ。それは赤ちゃんや、高齢の方々について、わたしたちが経験的に知っていることである。

『古いクーラー』とはどういう劇だったのか? 苦し紛れのひとつの回答としては、先に引用したクーラー8の台詞こそが、劇作家の意図などという軽いものではなく、劇作家の考えそのものだった、というものである。こう書けば観客が笑い、こう書けばおもしろがってくれる、ということはある程度了解済みの神里にとって、あえて「期待の地平」の外側に向かうことが、劇作家の役割だと思っている。だが、なかなかうまくいかない。

俯瞰的な位置にいた男の自分語りは、「時間切れ」で実に中途半端なところで、強制終了を余儀なくされるとともに、この舞台も幕を閉じることになる。暗転もなく、拍手もほとんどない(記憶ちがいかもしれないが、俳優はそのまま退場して出てこなかったのではないか)。神里にとって、観客に「何かいやな感情を残す」ことは、過去に「アヴァンギャルド」と呼ばれた人の一部と同じように、重要な要素なのであろう。むしろ、自分を非難してくれない行儀のいい観客に、もどかしさを感じているかもしれない。

というわけで次回はぜひ、客席にトマトでも配って、不快に思ったら舞台に投げつけるというような試みをしてみたら、いかがであろうか。無料招待された高校生も、きっと目の色がかわるはずである。

堀切克洋