もうひとつの『日本国憲法』はあるか―小嶋一郎『日本国憲法』『自殺対策基本法』

2009年度の統計によれば、12年連続で自殺者の数が年間3万人をこえた。10万人当たりの自殺者数は、24.4人。中国や北朝鮮は統計を出していないが(出していても正確ではないだろうが)、世界第6位で、先進国ではトップである。自殺者数ばかりに目をとられていると忘れがちだが、自殺率の高さはバブル崩壊以後に固有の話ではない。戦後の最大値25.7人は、経済発展がすでにはじまっていた「1958年」なのである。

わたしたちの社会では、当面のところ、自殺を「リスク」として(つまり発芽していない「種」のようなものとして)勘案することでしか「対策」をとることができない。つまり、自殺の原因は、いじめ、借金苦、恋愛関係のもつれなどのように、わかりやすい「物語」へと還元され、個人的な次元で処理されることになる。そのため、縁がなければそのような「自殺」はブラウン管の向こう側か、隅っこに追いやられた三面記事の「記号の森」のなかに迷い込むことになる。

小嶋一郎の『自殺対策基本法』はまず、そのような記号的な出来事を舞台から追い出すことから出発している。2006年に制定された「自殺対策基本法」以外のことばはテクストに使用しないというストイックな作品だが、60分の上演時間のうちのほとんどは、同法律のテクストではなく、見えるか見えないかの境目のような薄暗い場所で5人の俳優(黒田真史、山本清文、山本称子、佐々木琢、島田健司)が長音の母音を(時に周囲と不協させながら)発しつづけるというパフォーマンスである。

公式プロフィールによれば、小嶋一郎は2009年に「『演劇』を引退」したあと、「舞台作家」として『日本国憲法』という作品を発表。この作品での「京都芸術センター舞台芸術賞2009」大賞受賞を経て、フェスティバル/トーキョー10「公募プログラム」への参加となった。毎日変化するタイプの作品だということもあって、『日本国憲法』の再演は、新作『自殺対策基本法』との交互上演というかたちをとっている。ともに、法律テクストを舞台化するという「期待の地平」の外部にある試みだ。

もちろん、イプセンの時代であれば、自殺者を悲劇の主人公として設定して、社会的矛盾を体現する登場人物を中心に物語を書くことだってできただろう。わたしたちの社会では、そのような話型が一般的である。それが古くなったとか、流行や潮流の話をしているのではない。それ「だけ」では、自殺についてうまく説明することができないのではないかということだ。事実として、1958年と2010年の自殺率の高さは、「失われた10年」のような経済的要因だけではうまく説明ができない。

すでに述べたように、小嶋の関心は、おなじみの話型に収束していくのではない、「非」個人的な自殺の要因にある。しかし、どうしてそれが、不協和音からなる声のパフォーマンスとなるのか? そのことを考えるために、まずはくだんの法律に目を通してみたいと思う。少し長くなるが、テクスト自体に目を通したことがある方はほとんどいないと思うので、あえて引用しておきたい。

    第二条  自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみとらえられるべきものでは
        なく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組
        として実施されなければならない。
 
      2  自殺対策は、自殺が多様かつ複合的な原因及び背景を有するものである
        ことを踏まえ、単に精神保健的観点からのみならず、自殺の実態に即して
        実施されるようにしなければならない。

      3  自殺対策は、自殺の事前予防、自殺発生の危機への対応及び自殺が発生
        した後又は自殺が未遂に終わった後の事後対応の各段階に応じた効果的な
        施策として実施されなければならない

      4  自殺対策は、国、地方公共団体、医療機関、事業主、学校、自殺の防止
        等に関する活動を行う民間の団体その他の関係する者の相互の密接な連携
        の下に実施されなければならない。

これが自殺対策基本法の「基本理念」である。とても息苦しくは感じないだろうか? まず、すべてが義務として表現されている点。これは法律だから仕方のないことだ。つぎに、単調な表現である点。81字、83字、83字、81字。ゴルフのスコアみたいだが、これも法律のリズムだといえばそうなのかもしれない。しかし、義務を担うべき主体に「潜在的な自殺者」がカウントされていない点はどうだろうか? 家族(民衆)の警察化によるセキュリティ効果、のような息苦しさを覚えないのだろうか?


もっとも、『自殺対策基本法』では、上記テクストが「どのように書かれているか」に関しては、それほど関心が示されていない。この作品では、この法律の理念をむしろナイーブなかたちで共有しつつ、身体的なコミュニケーションのあり方に主眼が置かれている。そのため、上演は必然的にフィジカルなものへと接近していくことになる。言語は呻きや叫びという「前-言語的な」音声へと近づいていく。時々、外の公道を通る自動車のライトが、役者の体を一瞬だけ見せてくれる程度だ。

観客は椅子にじっと座りながら、どの付近にはどのような声の高さの役者がいて、どのタイミングで声が切れて......というようなことを聴きつづけることになる。とても息苦しいが、先の「基本理念」のそれとは、だいぶちがう息苦しさである。どちらかというと、葬式に参列して読経をひたすら聴きつづけるときの苦しさに似ている。音楽的に優れているわけではなく、かといって内容が面白いわけでもない。亡霊的な儀式に参加しているような、そんな印象もある。

だから、どうしてこれが「自殺対策基本法」なのか、という疑問は当然あがる。終盤には確かに、明るくなった場内でこの法律が叫ぶような仕方で読まれるのだが、それ以外の声のパフォーマンスは、仮に「病院坂の首縊りの家」とか「9.11」とかいうタイトルでも、成立してしまったのではないか? この点に関しては、テクストを法律に限定したことによって、逆にテクストと上演の関係が見えにくくなってしまったように思われてならない。

ただし、輪郭しか見えなかった役者が明るみに出て、法律を必死に叫ぶ姿は、どちらかというと、この法律の無力さ、あるいは焦りのようなものを示しているようにも思われるところ、それ以上に、役者の身体が実に「平板」なのは、注意をひく。みな、まだ発育途中の中学生か高校生のような「立体的ではない」身体なのである。演出家が意図して人選をしたかどうかは措くとしても、この迫力・存在感のなさは、法律のテクストのそれとは「ちぐはぐ」な印象を与える。

『日本国憲法』という作品では、観客は体育館のようなスペースを自由に見て回ることができるようになっており、会場のあちこちで何人かの役者が寸劇や緩慢な動きを繰り広げている(ここでも、発話は原則として「日本国憲法」だけを使っている)。また、京都での初演と比べると、一切の小道具を排除した上演となっている。そして、やはりこちらの公演でも役者には存在感がまるでない。俳優が、第9条をがなり声で叫んでも、である。

法律のテクストに声と身体を与えてみるという発想は面白い。日本国憲法の起草者も、自殺対策基本法の起草者も、まさかこのようなことばを肉体を与えられることになるとは、思ってもいなかっただろう。しかし問題となるのは、このようなことばと肉体を与えられたテクストが、観客にとってどのような意味をもちうるのか、ということである。この点については、どうも疑問が残る。もちろん、こうして少し読み直してみよう、くらいの気にはなるが。

まったく違った見方から、人々が知っていると思っているはずのテクストを提示するのは、いわゆる演出家の役割であるが、いずれの公演も、そうした期待に答えるものではなかったと言わねばならない。もっとダイレクトにいろんなかたちで「読む」ということをしてもいいだろうし、観客に「読ませる」ということがあってもいいかもしれない。いずれにせよ、テクストの選択と上演方法が説得力をもつほど合っていなかったのではあるまいか。

『日本国憲法』と『自殺対策基本法』はおそらく、ともに記号的な出来事に頼ることなく、「時代の無意識」のようなものを観客とともに考えることを狙った作品である。しかし、テクストを「読む」というプロセスから、上演方法に至るまでの構成がうまくつくられていたとは言いがたい。言わば、テクストは「口実」のようなものとなっており、俳優の(平板な)身体ばかりに目がいってしまう。少なくとも、今回の「公募プログラム」での上演は、そうだった。

しかし、このプロジェクトはさまざまにかたちを変えて、小嶋一郎のプロジェクトとして継続していくというのも「あり」だろう。なにせ、日本国憲法や自殺対策基本法という素材で舞台作品をつくったのは、彼がはじめてなのだから。役者や演出をいろいろと変えてみて(そのためには、自分の考えを捨てることができる柔軟さが必要だが)、何通り、何十通りもの『日本国憲法』、『自殺対策基本法』をつくっていくことで、「舞台作家」としての活動を継続していってほしい。そのように思う。

堀切克洋