『大人たちへ―読んだら感想聞かせてください』
   <小澤慧美氏>

 よく分からなかったというか、あまり面白くなかったというと、なんだか自分が馬鹿であると公言しているようで気が引けてしまう。だが、もともと芸術なんて、この解釈が正しいとか間違っているなどということは本来あるはずがないもので、感じ方は各々の自由であるはずだ。それなのに、他人のブログやツイッター、時には評論を読んでついつい「答え合わせ」をしてしまう。あるいは、創り手が「分かる人にだけ分かればいい」なんて言い方をして、それを批評家が評価して、私一人が劇場でポツンと心もとない気持ちで座っている時などは、「お金払って、時間を割いてきたのに、分かんなきゃ分かんなくていいとか言われて、案の定分かんなくて、遠まわしに馬鹿だと罵られている気もして、私ここで何してるんだろう。」などと思うことがある。特にアフタートークなどを聞いている時はしばしばそういう気持ちになる。


 まぁ、言ってしまえば、私が馬鹿なだけなのだろう。だが、では芸術は一体だれのためにあるのだろう。芸術家とそれを理解する批評家だけのためにあるのだったら、国から助成金をもらうなんてことはおこがましいにもほどがあるのではないか。私のような馬鹿を啓蒙することが必要ならば、それなりに馬鹿の立場も理解していただきたいとも思う。勿論、そもそも芸術とはだれのためにあるのか、なんていう議論はナンセンスであることもまた理解している。そんな議論は1週間くらい夜を徹して語り合ったとしても答えの出ることではないことぐらい分かっている。だが、私のような馬鹿ものの存在を無視してほしくはないのだ。1986年生まれの現在24歳。携帯電話を手放せなくて、電車ではいつも音楽を聴いている。「CanCam」に出てくるようなファッションをして、つけまつげをつけていて、キラキラしたもの、かわいいものが大好きで、ディズニーランドに年に3回は行く。こんな人間の話を、ゆっくり聞いたことはあるだろうか。多分、ないだろう。だから、たまにはこの、普段は軽蔑しているようなこんな馬鹿ものの話も聞いてみてほしい。馬鹿でも馬鹿なりの考えだって、それなりにはあるのだ。

 さて、よく分からなかったとはいえ、「ヴァーサス」という作品が消費社会を批判していることは分かった。一つ一つのパフォーマンスについて明確に「これは何を示している」と言うことは出来ないが、作品全体における暴力性や「食」の表現の仕方、所々にある台詞やスクリーンに映る言葉からそれらを何となく読み取ることは出来た。だが、驚くのは役者が裸になったことではなく、役者が裸になったのを観ても「ふーん。」としか思えない自分である。そう、舞台上で表現される様々な、多分「衝撃的」と評される事柄は、私にとってはちっとも衝撃的なことではなかったのである。なぜなら、私が日常生きている世界の方がよっぽど衝撃的でグロテスクなものだからだ。
 例えば、あなたは露出狂の被害にあったことはあるだろうか。男性ならば、そんな奴しょっちゅういるもんじゃないと答えるかもしれない。だが、実際は私の友人の8割は露出狂の被害者である。勿論、私も。それは非常に不愉快なことであり、被害にあって精神的にダメージを受けることもある。だが、それと同時に、現代社会においても身体的な衝動からは人は逃れられないのだ、ということもまた知る。むしろ身体というものが抑圧されている現代社会だからこそそういった行為に走ってしまうんだろうと思うこともある。露出狂を庇うわけではない。それは犯罪行為であり、逮捕され、然るべき刑を受けるべきだと思う。ただ、日常の現実世界の中にそのようなグロテスクさは存在していて、その中で生きる私はそのことにもう既に慣れ、時には考えていたりもするのである。
 また、私はバイキングレストランのウェイトレスをしている。バイキングであるから量を調節することが可能であるはずなのに、人々は食事を大量に残していく。食事が山盛りに、しかもぐちゃぐちゃに、乗せられている皿を私に差し出し「これ、下げて。」ととても偉そうに言う客も少なくない。エコなどと騒がれ、マイ箸やタンブラーが流行している世の中で、食べ物を非常に粗末にしていて、それに対して何の後ろめたさも抱かない人が沢山存在していることを私は知っている。ちょっと前まで料金を払って食べる「食事」だったものが「生ごみ」に変わり、それをゴミ箱に捨てるという行為を、私はアルバイトをする度にしている。そして、アルバイトの沢山の女の子たちは食事を残される度に「ホント、ムカつくんだけど。」「マジ、ありえない。」などと言いながら「飽食の時代」における人々の傲慢さを、身をもって学んでいるのである。
 あるいは、私の友人は彼氏に暴力をふるわれている。どれぐらいの頻度で、どのようにとまでは知らない。ただ、ある日顔に痣をつくって登校し、心配をする友人たちに対し笑いながら「彼氏に殴られたの。」と言った。勿論私達は彼氏と別れることを薦めたが、「でも、殴ったのは1回だけなんだよ。」と言った。そしてまた「もう一回殴るようだったら絶対別れるよ。」とも言った。約1年後、彼女はその彼と別れ、私達は安心した。そして、別れられて良かったね、と祝った。だが、その数ヶ月後、彼女はその彼とよりを戻していた。それ以来、彼女とは会っていない。元々、それほど仲が良い訳でもなかったのだ。私の周りでも、彼女の近況を知る者はいない。ただ、舞台上で「暴力を受けた人」という設定のパフォーマンスを観ることと、実際の友人が笑いながら暴力を受けたことを話すこととどちらが衝撃的で、辛いことだろうか。
 だが、そんな世の中でも「愛」があることもまた、私は知っている。例えば、ベロベロに酔っ払い他人に白い目で見られながらも、カラオケに酒を持ち込み、ギャーギャー下らないことで笑いながら、急に真面目に語らったり、自分の本音を言ったりして、それをお互いに理解し合って、また下らないことで笑いながら、心から、この人と友達になれて良かったと思う瞬間に「愛」があることを実感する。勿論、その人たちとの関係性が永遠のものかは分からない。ただ、ある瞬間、日常の些細な出来事の中で、別々の個体である人間同士の中に繋がりが見えることがある。そして私達はまた別々に生きていかなければならないけれど、その瞬間が心の支えとなることを知っている。だが、そうやって大切にしていたはずの友達が、ある日突然精神疾患を起こしてしまうことがあることもまた知っている。

 私は、消費社会の中で生まれ育った。それをつくり、与えたのは大人たちであるはずなのに、その大人たちに「ゲームばかりしてると馬鹿になる。」「漫画ばかり読んでると馬鹿になる。」「マクドナルドばかり食べてると馬鹿になる。」「アニメばかり見てると馬鹿になる。」と言われ、育てたのは大人たちであるはずなのにその大人たちに「最近の若者は...」と罵られ、消費社会を作り出したのは大人たちであるはずなのに「消費社会に生きると心が貧相になる。」などと言われながら消費社会の中で育ってきた最近の若者は、その中で育ってきたからこそ、その醜悪さを知っている。いくら「最近の若者」だって、マクドナルドのハンバーガーが良い食材を使って作られているなんて思っちゃいない。それを知っていながら、その社会の中で生きていくしかないという諦めにも似た感情を抱いて、今日もマクドナルドに入るのだ。そして、醜悪な消費社会の中でもささやかな愛が自分を支えていてくれることも、そのささやかな愛だけでは人を救えないことがあることもまた、知っている。そうやって私達は、消費社会の醜悪さを知りながら、それに立ち向かっても無駄であることを悟り、その中でとりあえず安全に生きられるように日々を過ごしている。それは、消費社会の暗闇に気付かないことよりも更に暗く絶望的なことではないか。もう、大人たちの忠告は聞き飽きた。私達の絶望は時にそれよりも深く暗く陰湿だ。だが、共に罵りあいいつまでもそこにいても事態は何も変わらない。私達は、その先へ進みたい。大人たちよ、いつまでも若者と「ヴァーサス」な関係でいるのではなく、たまには馬鹿ものの話を聞いて、共に進むことを考えてはくれないか。例えば、その日観た演劇の話などをしながら。「演劇は、時代錯誤な芸術です。今の社会において、演劇なんてほとんど意味を持っていないとも言えるでしょう。」このロドリゴ・ガルシアの言葉には賛同する。だが、演劇という共通体験を通して大人と若者が共に話し合い、先へ進む手掛かりとなるのなら、演劇はまだ捨てたものではないはずだ。
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