『わたしはあなたのすがたのはなしをしよう』
  <浅野史郎氏>

 あなたはたった一人で彼の書いたリストと物語を読んでいる。それを読み上げる声はあなただけが聞く声だ。

 演劇とはなにか。

 時間が流れている、その上に人が立っている。その人の足は地についている。

 この町の話をしようか。一つ一つ、一人一人、糸を紡ぐように物語っていくのにいくら時間がかかるだろう。君には紡いだ糸を解き、撚った糸を紡いでほしい。最後に、私はそれを君にあげるから。


 ある日私は彼女に今朝見た夢を話した。知らない場所、知っている人、体験したこと、覚えていること、思い出せない夢。彼女は何を聞き、何を思い描くのか。私の夢を彼女が見ないように、彼女の思う私の夢を私が見ることはない。手渡された私の夢。私の声、彼女の頷きはどこへいったのか。

 電車に置き忘れた傘を駅の保管場所に取りにいく。無数の傘。自分の傘はどれだろうか。一つ一つ話していく。場所について、時間について、なくした傘について。色、素材、長さ、しわ、傷、どれを言えば傘は出てくるだろう。言葉は時間とともにそれを積み上げることしかできないし、先回りすることもできない。
 しかし、はじめに場所について語るとともに傷について語り、終わりに傷について語るとともに場所について語らなければならない。広がりながら消えていく記憶によって、私の言葉は、終わりへ向かうとともにはじめを指し示そうとしている。


 では飴屋法水による「わたしのすがた」が指し示したものは何か。
 演劇の本質? 演劇の可能性? そんな命題を掲げるまでもなく、演劇は自己を見つめ返すことができる。鏡によらず、演劇を内省することができる。そして内省自体もまた簡単に演劇となりうる。しかし飴屋が「わたしのすがた」において示したのは、一つにはこの内省する演劇の客観的に見られた外見であり、一つにはその筋肉の反射である。飴屋は内省する演劇に演劇自らの姿、発する言葉、自らの生い立ちを差し戻すことはしなかった。そうではなく、他ならぬ観客を拡張し、それに演劇を直視させることによって演劇の定立する姿を露にした。
 この時まず観客の目に入るのが内省する演劇の姿であって、演劇の内省ではないということ。観客が演劇と逃れ難く対面し、観客の目や言葉がそこにいる演劇に向けられるということ。この視線はかつて提示され、そして今現在もあらゆる芸術を少なからず束縛し続けているモダニズム/ポストモダニズムによる問い(しつこく我々の体に絡み付く問い)への、重要な回答となりえている。言葉によって投げかけられたこの摩滅しない問いへの答えは、しかし飴屋によって言葉を用いずに行われ、置き去りにすらされた。この作品にはそもそも内省する言葉がない。
 しかしそれは言葉によって綴られる。この作品の中央にあるのは紛れもない言葉である。観客は言葉によって導かれ、街を歩き、演劇に向かい合っていく。しかしこれらの言葉が観客に与えるのは何らかの普遍的な回答ではなく、ある経験、もしくは知識、記憶とでも呼びうるものだ。経験としての言葉、文頭から文末に向けて順次時間とともに積み重ねられていく知識、記憶。それは演劇のメタファーに読み替えるまでもなく我々の知っている演劇の姿である。何かを一方的に規定された経験ではなく、受け取り、交換され、読まれるための記憶。それが観客に、言葉によって正面から与えられる。

 会期中、飴屋はこの作品に手を加え続けた。いくつもの要素が加えられ、取り除かれ、動かされたため、観客は普遍的な再現可能性を備えることがない、止めどなく流れ繰り返される初演としての物語を経験する。観客は一人ずつスタートの時間がずらされるため時間や体験の共有から明確にずらされていく。その日のその時間にスタートするのは一人だけで、さらに観客が辿る道や訪れる建物には強制的に空間を安定させるような照明や空調がないため、気温、湿度、明るさなど、あらゆる条件は気象に準じて流れていく。多くの観客がたった一人で寒さに震え、暗闇に目を凝らしただろう。しかしそれは演劇から一人一人を独立させるということではない。そうではなく、それは同じ位置、違う空間が、誰にも違う言葉によって、ある一つの物語を読み聞かせるということ、観客一人一人にとっての演劇という点を特質として際立たせ、それぞれにマンツーマンである物語を贈っていくということだ。そしてその贈り手として働いている飴屋を多くの観客は実際に会場で目にしたはずだ。そこで観客たちは自分の隣にいながら違う物を見ている他の観客を視界に入れながら、しかしほとんど口はきかず、誰もがじっと静かに、丁寧に、飴屋から自らに手渡されていく物語に向かい合っている。
 しかしその一方で飴屋は、明らかに普遍的な時間を想起させる装置を演劇の文脈に則って配置している。まるで演劇と時間が分ち難く寄り添っているかのような方法論で。暗号のように、演劇を超えた記号としての家、古道具、遺影、日記、地図など、それらはどれも強く過去、そして時間の流れを意識させるものだ。記号によって演劇の外へ無限に広がる時間は死を、死は現実を、それぞれ(観客の目の前で)演劇の中に内在させていく。それらは本来全てに内在しているにもかかわらず改めて演劇的身振りとして与えられるため、時間は演劇を中心に広がりながらも繰り返し演劇に戻されていく。それに対して、明らかに演劇的な装置(張り紙、スピーカーから出る音、小さなライト、垂れる水滴、そして大きな穴)は、演劇に内在するフィクションとノンフィクションの輪郭を際立たせている。反復する矛盾(同一であり分離しているという)による基点の喪失は観客に自らを介して演劇と時間が共にいることを突きつけ、演劇からの逃れがたさと、時間からの逃れがたさを同時に(その矛盾の解決策として)提示することとなる。
 しかしこの作品の中心にあるであろう張り紙に書かれた言葉は、それを見る観客をもう一つの時間へ運ぶ。それは本を読むという時間、どこでもない時間、具体的に言えばキリストの物語の中にある時間ということになるのだが、これが他の二つの時間と違うのは、それがすでに手の中にあり、その流れの再開と中断が任意であるという点においてだ。その物語はすでに誰にでも無条件に与えられているし(だからこそそれが何らかの聖書の場面に由来する言葉だとわかるし、それはキリスト教の前提ともなっている)、今なおそれは読まれ続けているのだから。与えられている本を読むことの分断と接続のセオリーが紙片と言葉を物語としてつなぐことを可能にしている。
 自ら歩くことで辿り着く二件目の家(元教会)ではそれまでは言葉の断片でしかなかったキリスト教がシーンの抑揚によって前面で接続される。そこに置かれた聖書は同じく二件目にある故人の日記と同列に、しかし正反対に位置している。ここでは共に主人の死とその傍らにいる親しい者(客観、他者)について書かれた部分がそれぞれの言葉によって開かれ、提示されるが、日記は個人の有限の時間の中に、聖書は世界中の無限の時間の中に立ち現れる。無限に寄り添う有限、任意に規定された形ない時間。観客は自らの足を進めるにつれて自らに差し出された経験、時間、理解が、単一ではないという事に向かい合わなければならない。それらが多重に進行する、戻ることだけはできない時間の中で。
 では観客は書かれた文字をどのように読み上げるのだろうか。様々な人による一人称の言葉を、観客は誰として、誰に向けて読むのか。受け取るだけではなく、主体的に文字を読み上げることが演劇として行われる時、観客は誰の視点で、今は亡きその言葉の主人を、また傍らで見守る人たちを見るのか。
 そして懺悔の部屋によって観客自らも、そこに言葉を書き加えていくこととなる。他人の懺悔を一人称で読み上げながら、自らの懺悔が誰かに一人称で読まれるために。言葉に対し一人であり複数人でもある主体。この受け渡される言葉の三重性と、二重の主体の消失点。それはつとめて本の空間であり、観客の人称でもある。本は演劇の中にあり、一人であり複数人でもある観客の視線はそのままこの演劇を言葉によって織り上げていく。本のある家としての演劇。演劇としての家々のある街。それら広がった物語を結ぶ、幻想と身体の消失点としての演劇。

 家を巡るにつれ観客の手にはありあまるほどの要素が与えられる。しかしそれらは一見説明的、記号学的に絡み合っているにもかかわらず、いまだ観客は散文的にしかそれら多層を位置づけ、結び合わせることができない。手渡された地図から観客は様々な推測とともに自らの足によって次へつながろうとするが、それと同時に自らに何かを与えようとする飴屋の地図に身を委ねなければならない。そして観客は発見するとともに辿り着く最後の家(かつて医院だった建物、死と身体を再確認せざるをえない場所)で明確に終章として集束する物語を受け取ることとなる。
 それまで不可解だった穴は説明的にその場所と時間と質量を示すことで言葉となって街の地層を語り、緩やかに見えていた死のメタファーは遺骨や衣服がベッドや祭壇に整然と並べられることによって身体的な結末を迎える。
 そして一つの時間、一つの寓話として全体の中心を貫いていた、十字架へとつながるキリストの死の物語は屋上階にある丘のように街を見渡せる場所、しかしそれより先に進むことができないガラス張りの洞窟で(キリストは丘の上で死に洞窟に葬られている)、これまでの全ての物語に対する最後の言葉となって、この紛れもない演劇を台詞で結ぶ。観客は他者の死の先にある場所で、言葉に呼びかけられるとともに、それを自ら読み上げなければならない。
 [もう忘れよう そしてみんな うちへ帰ろう] 

 さて、終わりの後、建物を出て帰ろうとするその手に渡されるのは、劇場へいくといつも手渡されるような演劇スタッフの名前が書かれた紙だ。この形式的な紙切れ一枚とそこに書かれた文字は、それまでの紙と文字とは一転して観客に与えられた全ての物語を断ち切る。記憶と経験は形作られた物語として、そして演劇として、白々しい終点に着地する。もはや分断不可能かと思われた演劇と現実の境が元通り設えられ、観客はさっきまで自らと不可分な形で重なり合っていたいくつもの時間、いくつもの物語、いくつもの演劇を、そこに置いていかなければならない。
 こうして半ば強引ともとれる戯曲的措定によって、全ては、物語には物語としての時間があるかのように、始まりは終わりに、終わりは始まりに与えられる。たとえその時、多くの観客が最初に与えられた言葉をすでに忘れてしまっているとしても、それは観客の手に渡される。工場の倉庫から出した一冊の本のように、繰り返し読むことも顧みることもできる時間として、しかし二度と反復できない唯一の時間と本としての街の中で。

 最後に、最初の問いに立ち返ってみよう。演劇とはなにか。雄弁ではないにしてもこの演劇はそれになんと答えたか。
 飴屋は本と家と街を同じく本のように開き、そこに散らばる無数の物語から新たに一つの物語を演劇として作った。それは言葉が聴衆ではなく観衆を得る方法そのものだ。
 さらに飴屋は会期中も会場に居続け、文字を書かれ続ける懺悔の部屋とともに観客の視線と言葉を受けながら少しずつ人と場所に変化を介入させ続けた。一度しか会場に行かなかった観客はその変化に気付くことがないかもしれない。しかし、部屋の扉、張られた紙、机の上の物、それらはその観客達なしには動かなかった。飴屋はその場所で観客に演劇を手渡すとともに観客から演劇を受け取っていたのだ。
 そこで観客に手渡されていたのは演劇に可能なものではなく、演劇が可能にするものであり、そこで差し出される手は交換される言葉が時間の上で作用し構成していく演劇の生きた肉体である。そしてその所作をつなぐのは他ならぬ演劇を受け入れた者による無言の返答、言葉なき声、目による頷きである。
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