「竜は竜は竜はいかにしては狩られたのか?
  〜「悪魔のしるしのグレートハンティング」における私の勝手な冒険〜」
  <小野寺伸二氏>

 「お渡しした印刷物の中にあらすじが載っていますので、それを読んでいただければ......」演出家らしき森と呼ばれる男性からそんな前説があった。いや、"前説"ではないのかもしれない。なぜなら、そのまま劇団関係者との会話になり、その最中に森は殺されてしまうからだ。ひげ面の男に背後から脱ぎたての下着で鼻と口を塞がれるという、おぞましくもユーモラスな(?)方法で。芝居はすでに始まっていたのである。


 それにしても、配布された印刷物のあらすじを読んで欲しいとは、ずいぶん弱気なコメントである。それほど難解な内容ということだろうか。

 森を殺した男は、演出家の着ていた服を脱がして身につけると、遺体を床下へ押し込み、何食わぬ顔で自分が演出家の森になり、劇団関係者の女性との会話を引き継ぎ、物語は続いていく。

 舞台の中央には、まるでゲームセンターのカーレース用のコックピットが中心に向かって円形に並んでいるような装置が置かれている。壁で仕切られた、やっと人間の体が入りそうな8つの空間には、誰かの部屋であるかのように壁にピンナップが貼られ、物が置かれたりしている。ほとんどの登場人物はその狭い「個室」に身を押し込み、ときどき訪れる出番を待つ。装置からは長さ2メートルほどの鉄のパイプが水平に突き出ていて、それを押すと公園の遊具のように水平方向に回転させることができるのである。その装置は、死んだ方の森(実は構成・演出の危口統之)によってゆっくりと独楽のように回転させられる。それは芝居の間、断続的に続く。この作品は演出家が体を張っているから進むのだ......とでも言いたげだ。あるいは、事前発表の内容と舞台の設定が違ってしまったことへの反省を胸に、自らへ科した罰として使役に服しているつもりなのか......。この回転に合わせて、天井近くにあるスクリーンに「竜退治」という小説のテキストが映し出される。

 そんな舞台装置の奇抜さに反して、ストーリーはごくシンプルなものだ。演出家の森は、「竜退治とボードゲームを絡めた作品」という案をプレゼンテーションして、ある舞台芸術祭に参加することが決まる。金がないために、いい加減なワークショップを開いて参加者からお金を集めたり、会う人会う人から無理に金を借りたりしていたが、芸術祭用の作品制作は遅々として進んでいなかった。やがて、森のいい加減さに人々が気づいたとき、ムカツイた森は次から次へとそれらの人々を殺してしまう。最後には、殺された人々の亡霊が竜になって現れるが、森はその竜もマシンガンを使って退治してしまう。

 あっさりしたものだ。パンフレットのあらすじなど読むほどのものでもないように思えた。だが、この芝居に何とも例えようのない不思議な空気が感じられるのと、劇中で朗読された危口統之の、演出に関する考えを述べた一節らしきものが気になって、あらすじを読んでみることにした。劇中で読まれた一節とは、自分で説明してまで誰かにわかってもらいたいとは思わないし、謎は解かずに謎のままにしておきたい......というような内容のものであった。


 A3の大きさの紙を二つ折りにしたパンフレットを見ると、同じ面に「竜退治あらすじ」「森翔太のグレートハンティング」「危口統之のグレートハンティング」とタイトルが並んでいる。これが3つともあらすじであった。
 「竜退治あらすじ」では「20世紀初頭イタリアの田舎貴族(世間知らず)が」という書き出しで始まり、ある谷に竜が現れるという噂を聞いた田舎貴族が、仲間と連れ立って見物&狩りに出かけるが、現れたのは伝説のドラゴンのような立派なものではなく、オオトカゲに毛が生えたくらいのもの。それを見ているうちにムカツイてきてなぶり殺しにするが、その死体からモクモクと変な煙が出てくる。そこで、途中の村で会ったオッサンが、その竜は毒の煙を吐くらしいと言っていたことを、ゲホゲホと咳が止まらなくなってきた身で思い出し後悔する。最後は「最初から感じていたんだ」「ろくなことにはならないだろうという予感がしていたんだ」という2つの台詞で終わる。

 「竜退治あらすじ」のタイトルの下には

 ジェロル 森翔太

 マリア 嶋崎朋子

 インギラーミ 丸瀬顕太郎

 フスティ 八木光太郎

 八木を運ぶ青年 高山玲子

 その青年の手下的な感じの人 ますだいっこう

 山羊 伊藤愉

 タッディ 神尾歩

と配役が並んでいる。

 2つ目のあらすじ「森翔太のグレートハンティング」では「21世紀初頭日本の田舎モン(世間知らず)が」という書き出しで始まるものの、違っているのはその部分だけ。あとは「竜退治あらすじ」とまったく同じ内容になっている。ただし、配役は、

 森翔太 森翔太

 森翔太の応援とかしている人 嶋崎朋子

 森翔太を慕っている人 丸瀬顕太郎

 森翔太を慕っている人の知り合い 八木光太郎

 森翔太に竜退治を依頼した人 高山玲子

 森翔太に竜退治を依頼した人の部下的な感じの人 ますだいっこう

 竜退治評論家的な人 伊藤愉

 森翔太の友人 神尾歩

となっており、役者は同じだが役名が「竜退治あらすじ」とはまるで違っている。

 3つ目の「危口統之のグレートハンティング」では、「森翔太のグレートハンティング」と同じ「21世紀初頭日本の田舎モン(世間知らず)が」という書き出しで始まるが、それ以下はかなり大きく違っている。その田舎モンは、とある街で舞台芸術祭が開催されるという噂を聞きつけて、仲間を誘って参加&人気ゲットに挑戦することになる。しかし、実際に作品を作ってみたところ、場末のコントに毛が生えたくらいのもので、それを見ていたらなんかムカツイてきて、なぶり殺しにするが、舞台から変な空気がモクモクと湧き出してくる。そこで、途中で相談した友達が、失敗したら再起不能だよと言っていたことをドキドキ動悸が止まらなくて苦しくなってきた身で思い出し、後悔する。そして最後はやはり「最初から感じていたんだ」「ろくなことにはならないだろうという予感がしていたんだ」という2つの台詞で終わる。

 タイトルの下の配役は以下の通りである。

 危口統之(悪魔のしるし主宰) 森翔太

 金森香(悪魔のしるし制作) 嶋崎朋子

 悪魔のしるしがおもしろそうだと思って気軽に参加してしまった人A 丸瀬顕太郎

 悪魔のしるしがおもしろそうだと思って気軽に参加してしまった人B 八木光太郎

 舞台芸術祭を仕切る 高山玲子

 舞台芸術祭を仕切る人の部下的感じの人 ますだいっこう

 舞台芸術とかの評論家 伊藤愉

 神尾歩(悪魔のしるしパフォーマー) 神尾歩

 「竜退治のあらすじ」は、どうやら構成・演出を担当している危口統之がこの作品を作るにあたってのきっかけとなった小説「竜退治」のあらすじと思われる。一方、「危口統之のグレートハンティング」は、舞台上で演じられたものに最も近い内容である。「森翔太のグレートハンティング」は、その中間段階のものといったところか。つまり、この作品を作るきっかけとなった物語と、その物語を現代日本に置き換えようとした最初の形と、演じられた最終形が並んでいるのではないか。完成作品に至るまでの、時間的変化を紹介していることになろうか。


 しかし、それでは腑に落ちない部分もある。ひとつは、原案ともいうべき「竜退治あらすじ」に、配役が設定されていることである。単にきっかけとなった物語を紹介するのであれば、配役する必要はない。また、「危口統之のグレートハンティング」で俳優・森翔太の演ずる役名は「危口統之」となっていたが、劇中、森翔太はずっと「森さん」と呼ばれていた。森翔太が「森さん」なのは「森翔太のグレートハンティング」においてだけのはずなのである。そして、あらすじは3つとも「悪魔のしるしのグレートハンティング」というタイトルにはなっていないのだ。
 これはいったいどういうことであろうか。そもそも、作品が完成するまでの変化を追って順にあらすじを載せるようなことに、あまり意味があることとは思えない。「竜退治あらすじ」と「森翔太のグレートハンティング」にいたっては、さほど違いもないのだ。しかも、舞台で演じられた物語自体、あらすじを読まなくては理解できないような複雑な内容ではない。
 しかし、まったく意味のないものをわざわざ、しかも3つも載せることもないだろう。冗談にしても半端すぎる。わざわざ載せるからには、むしろこの作品において、この3つのあらすじこそが重要なものと考えるべきではないだろうか。では、いったいどのような意味があるのだろうか。

 配役が載っているということは、演じられることを意味していると言ってよいだろう。
3つのあらすじが同じように載っているということはいずれにも同等の価値や意味があるからだと考えられる。

 だとすればこんな結論は考えられないだろうか。つまり、3つともこの作品のあらすじであるということだ。逆に言えば、この芝居には3つの物語が同時に存在しているということである。表に見える物語は1つかもしれないが、それと平行して2つの物語が流れているのだ。だから、森翔太演ずる役は、ときに「ジェロル」であり、ときに「森翔太」であり、ときに「危口統之」であるのだ。嶋崎朋子演ずる役は「マリア」であり、「森翔太の応援とかしている人」であり、「金森香(悪魔のしるし制作)」なのである。観客は3つのうち1つを観ているようでありながら、同時に3つの物語を感じるのである。「竜退治」「森翔太のグレートハンティング」「危口統之のグレートハンティング」がうねりながら見え隠れするのだ。そして、その3つの物語が重なり合い、絡み合ったり離れたりするのに気づいたとき「悪魔のしるしのグレートハンティング」の姿が見えるのである。この物語は3頭の竜を狩る物語だったのだ。


 私がこの作品を見て、不思議に感じたことの原因もどうやらそのあたりにありそうだ。物語の筋はわかりやすいものだが、その元となった物語の、必ずしも内容が一致していないテキストがスクリーンに表示されることは、1本の明確な線であるべき物語の輪郭を曖昧にしている。だが、輪郭をあるべき場所につなぎ止めようとしない曖昧さがありながら、決して拡散してしまうわけではない。その線の「ブレ」に違和感を感じたようだ。劇場で渡される3つのあらすじは、その「ブレ」具合に輪をかける。ときに重なり合い、ときに遊離することで輪郭がくっきりとしたり、ぼやけたりする変化。きれいに重なり続けているわけでもなく、明らかに分離していくわけでもない動き。その微妙な「ブレ」こそがこの芝居を包んでいる不思議な空気を作り出していたのだ。

 森翔太の飄々としていていながら虚勢を感じさせるしゃべり、演劇評論家の描かれ方、舞台装置の回転体など、味のある見どころも多い作品だが、この「ブレ」こそがこの芝居の最大の特徴であると思うし、それを伴って描かれた独特の不思議な世界を私は評価したい。それに、あらすじを読まなくては、堪能できない芝居などというのは、追い詰められた演出家がフェスティバル/トーキョーを思わせる演劇祭の関係者を殺してしまうという、この芝居の中の場面をも越えたブラック・ユーモアではないか。

 ムカツイて、周囲の人を次々に殺し、その亡霊の作る竜をも殺した森は、最後の最後に装置の中からエレキギターを取り出す。それを激しく掻き鳴らして物語は終わるのだ。その姿はまるで荒れ狂う竜のようである。そして、もうひとつ。実は私は、2度この公演を見ているのだが、その2度目に見た千秋楽では、結末が変わっていた。亡霊たちの竜を森がマシンガンで撃ち殺すまでは同じなのだが、そこで物語の冒頭で殺された、危口統之演じるところのもう一人の森が復活する。危口の森は、竜を撃ち殺した森からマシンガンを奪い、森を撃ち殺すのである。そして、最後に危口の森がエレキギターを掻き鳴らす。まるで、5頭目の竜が現れたかのように激しく......。


 これが正しい解釈かどうかなんて、もちろんわからないし、仮にその通りだったとしても、演出家は答えてもくれないだろうな。そんなことを考えながら、ふと、劇場でもらったパンフレットのあらすじが書かれている部分に目をやったとき、まるで紙の地紋のようにうっすらと竜の姿が描かれていることに気づいた。そこには重なったり離れたりしながら疾走している、5頭の竜の絵があったのである。
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